神の杜
2
『――おいで』
気がつけば、桜は朽ち果てた広い和室に横たわっていた。床に敷き詰められた畳は腐り落ち、天井の梁も傾いで、いまにも折れそうだ。
開いた襖の向こうは漆黒の闇。その塗りつぶされた空間から、するりと白い手が現れた。
その肌は、血の通っていない紙のような白さ。肉がそぎれ落ちて、皮と骨だけの手が、こちらに伸ばされている。
『可愛いちい姫。愛しい姫や』
その白い手はゆらり、と手招きを繰り返す。
手招きをするたびに、ひとつ、またひとつと白い手が増えていく。
おどろおどろしい風が、背中を押した。風は四肢にからみつき、自由を奪い始めた。
行きたくはないのに、その意志に反して、裸足の足はそちらへ向かう。
『こちらへおいで…。そう。こちらへ…』
のろのろと足を運んでいると、白い手がとうとう桜の手首をとらえて引き寄せた。
『――もっとちこう…』
ふいに薄い帳をくぐりぬけたかのような感覚に襲われる。漆黒の闇から引きずり出され、よろめいて膝をついた。
ひんやりとしたものが頬をかすめて、俯いていた顔を上げる。
雪が降っている。
ひらりひらりと舞うように。
暗闇にぼんやりと浮かぶのは四方に高灯台が配された正方形の露台。
舞台の上では、白衣に赤の長袴を穿いた女性が扇を持って舞っていた。顔には鬼の面をつけており、表情はわからない。
『教えてたもれ…ちい姫はどこじゃ?』
零れだすしゃがれた声が闇に木霊する。扇をもどかしげに開いたり閉じたりしながら、女は擦り足で露台をゆっくりと回る。着物は汚れ、風に煽られる黒髪はちぐはぐの長さで、しかもぐしゃぐしゃに乱れている。
女の着物のどす黒い沁みが、血だと気付いた瞬間、桜は恐怖に身を絡め取られ、動きを封じられた。
ふつり。と女の気配が変わる。
がくんと俯いて、見上げた顔に、面はなかった。今度は長い髪を美しく整えた女だ。体つきは面の女と変わりない。真っ白な千早を身にまとい、頭に天冠をのせている。
女は、青白い顔をさらに白くして、訴えかけるように視線をなげかけた。
『いけない。こちらにきてはだめ』
切羽詰まった声色が、桜を捕えていた呪縛を振りほどく。
我にかえって、震える膝を叱咤してなんとか身を起こしている間に、また女の気配が変わった。今度は面の女だ。
『ああ…くるしい…憎い…。はようこのくるしみからときはなってほしいものよ…』
女が捜しているのは、自分だ。そう桜は悟った。身を隠さなければと辺りを見回すが、自分を隠してくれそうなものはなにもない。
『どこじゃ…ちい姫。すがたをみせておくれ? ……おお』
ぎくりと肩を強張らせた。苛烈な視線が身体を射ぬく。
息ができない。舞台から眼をそらせない。女は舞うのをやめていた。まっすぐこちらに身体を向けている。
面の奥の眼が、
こちらをはっきりと捕らえた。
(ああ――、見つかってしまった)
全身から血の気が引いていく。恐ろしさに腰を抜かして、初めて両腕と両足が縄で縛められていることに気付いた。
(もう、逃げられない)
この縄は私を逃さないためのもの。決して断ち切れない鎖。そう悟って項垂れる。身体からすっかり力が抜けてしまった。
(怖いし、寒い。それに――とても、
『逃げて』
悲痛な声音が頭に直接響く。桜は呆けた表情で再び舞台を見上げた。面の女は舞台から滑るように下りてきた。しゅるしゅると衣ずれの音を響かせて、ゆっくりと面の女は桜に近づいた。
両手で耳を塞いで、眼を堅く閉じて蹲る。
(怖い、だれか…)
――誰に?
はっと瞠目して、桜は唇をかんだ。助けてくれるような人の顔など、浮かばない。
『逃げて』
再び頭に響いた声に、怒鳴り返したくなった。
(どこへ逃げろというの)
恐怖と不安が交錯する中で、それだけが強く浮かんだ。
そう、ずっと自分に逃げ場所なんてなかった。助けてくれる人もいなかった。
『禍つ姫』と、一族から蔑まれ、兄からは厭われる。そんな自分には、きっとなんの価値もない。だからどこにも逃げられないし、まして誰かが助けに来ることはない。
(私は誰? 禍つ姫? 神代の巫女?)
自分に問いかけるけれど、それは名前じゃない。ただの器≠フ名称。そう、私は器としか見られていないのだ。ならば、心はいらないのではないか。
桜は、震える手のひらを見つめて、薄く笑んだ。そうか、こんな簡単なことに、何故すぐに気付かなかったのだろう。
心を手放してしまえば、きっと恐ろしさも、不安もなくなるのだ。近づいてくる異形の女に怯える感情も無くなる。
ゆったりと闇へと誘われる感覚に、身を任せよう。そうすれば、楽になれる。
意識を手放しかけた瞬間、懐に鋭い熱が走った。驚いて見下ろせば、胸のあたりかで青い光が瞬いていることに気付く。
「な、に…?」
不審がりながら懐を探ると、すぐにそれは手のひらに滑り込んできた。
鏡だ。懐に入れてある鏡が青い光を生みだしていたのだ。丸くて小さいけれど、裏はきちんとした装飾が施されている。
『……――?』
いつのまにか立ち止まった異形の女が、小さく何かを呟いた。名前だということはわかったが、耳をすりぬけて頭に残らない。
『…――からもらったのかえ? それは、わたくしのもの。およこしな』
立ち止まったまま、女が白い手を伸ばした。その意識が鏡に向いているのに気付いて、桜は慌てて頭を振っていた。
「違う。これを、くれたのは…あなたがいうひとじゃない」
自分の言葉にびっくりしながら桜は続けた。
「これは、私がもらったの。あなたのものじゃない…!」
震えながらも言い放った桜に、女の気配が急変する。面で表情は分からないはずなのに。凄絶な怒気をはらんだ眼差しは、身体を苛んだ。
女が一歩前に出ると同時に、抱きしめていた鏡が小刻みに震え始めた。
振動と共に徐々に光は強くなり、それは彼女の全身を包み込んだ。思わず顔を覆って桜はうずくまった。
『転ぶといけないから』
ぎこちなく差し出された手。繋いだてのひらの熱さ。いままで味わったことのない、面映ゆく、優しい感情。
ひとつ思い出せば、次から次へと記憶がよみがえる。
ああそうだ。これをくれた人を私は知っている。手を繋ぎながら、一緒に蛍を見た少年を。
その少年の名を、私は覚えている。たとえ自分の名を忘れても。
何度でも呼ぶことができる。
「――蒼牙、くん」
その言霊をつむぐと、暗闇の場がほどけていくのが分かった。青い光に気圧され、闇が、女の気配が遠のいていくのを感じた。
それと引き換えに、誰かの呼ぶ声が聞こえてくる。何度も何度も、自分を呼ぶ声。そう、これは、自分の名前だ。
もうどうすればいいかわかる。迷わなくていい。この声のもとに、この声の主のもとに帰ればいいのだ。