神の杜

第 1 7 話 解 か れ た 封 印


 1

 ――がしゃあああああんッ

 窓ガラスがけたたましい音をたてて割れ、一拍も置かずに本棚がなだれ落ちてくる。
 蒼牙は舌打ちすると固まっている桜に腕を伸ばし、抱きしめるようにして床に押し倒した。
 頭と背中が床に激突するのを抑えるために、抱え込むように桜を引き寄せて、細い腰に腕を回す。
 ばさばさと本を落としながら、がつん、と桟枠に本棚がひっかかる。落ちてくる本や、窓際から倒れて落下した花瓶の破片から桜を護るために、蒼牙は桜を胸に強く抱え込むように抱き締めた。
 桜は年の割に華奢で小柄だ。けれどその少女とさして変わらぬ体格をもっている自分を心底呪った。
 ぶあつい(おそらく辞書だろうと思われる)本が背中に直撃し、息を詰める。

 一瞬意識が遠のいた。

 緩慢ではあったが、揺れは段々とおさまっていき、地響きは遠のいた。
 完全に揺れが収まるまで、蒼牙は腕の力を緩めなかった。地鳴りがおさまり、辺りが静かになると、蒼牙はやっと深く息を吐く。
 そっと瞼を開くと、目の前にひしゃげた電灯が落ちていて思わず息を詰めた。倒れた本棚が桟枠にひっかかったことで、防壁になったのだろう。
 身体を少し起こすために、腕の力を緩めようとして、蒼牙は眉間にしわを寄せた。

 腕の中にいる桜がぴくりとも動かない。
 抱きしめていた力を緩めて、顔をのぞきこむ。彼女は、ぼんやりとした眼で天井を見つめていた。
「か……、…!」
 声をかけようとして、蒼牙は息をのんだ。
 桜の瞳の色が違うことに気付いたからだ。
 いつも自分を見つめ返す透き通った琥珀の色はどこにもない。

 手の届かぬほど高く、海よりも広い天(そら)の色。何もかもを見とおすような、濁りひとつない青の瞳。
  
「…神代?」

 囁くように呼んで、遠慮がちに肩を軽くゆさぶる。だが、反応はない。それどころか、いつか感じたことのある清らかな気配が桜から流れ込んでくる。
 触れた部分から、その力の一端が流れ込んできた。その感覚に、首をかしげる。
 白だ。何物にもおかされぬ高貴な白。輝けば銀の光になり、一条をてらす。

 不思議な感覚だった。けれど、懐かしい。

(どうして…)

 ふいに桜が身じろぎをして蒼牙の頬に細い指先を伸ばす。蒼牙はぎくりと硬直した。鼻先と鼻先が触れそうに近い。声をあげそうになって、寸での所で止める。
 瑠璃の瞳が揺れていた。かとおもったらみるみるうちに透明な水が眦にたまり、白い頬をつたう。
 桜は唇を震わせ、涙を流しながらなおも蒼牙から視線を外さない。一瞬置いて、その唇から女性の声が静かに零れはじめた。鈴の音のように軽やかで愛らしい桜の声ではない、しっとりと落ち着いた声色だった。
 桜の中に桜ではないモノ≠ェいる。それに気付いた蒼牙は無意識に霊力を発動する。黒曜から翡翠に変わった瞳を愛おしそうに瑠璃の瞳に映し、彼女はまた、涙を流した。
「……る…ぎ…を…」
「え…」
「…剣を…もちなさい……海神の…めぐしご…」
「剣…?」
 桜がゆっくり頷いた。
 蒼牙は躊躇ってから、注意深く言葉を紡いだ。
「あなたは…誰ですか?」
「…わたくしは…剣の巫女」
 桜は微笑む。そうして、苦しげに眉をひそめた。ほの白い影が桜の身体から立ち上る。大きく息を吸い込んで、少女は今までにない強い口調で言い募った。
「…鱗の剣をもちなさい。哀しき変転を断ち切るのです。……はやく……」
 はやく。
 もう一度呟いて、桜の身体から力が抜ける。がくりと首をそらして力の抜けた身体を蒼牙は呆然と抱えるしかなかった。

◇ ◇

 あまりの激しい地鳴りに、四肢が引き裂かれるような衝撃が走る。それが数分のちに収まると、倒れ伏している兄を抱え起こす。雪路の顔は魚の腹のように白く、そのため血に濡れた唇は毒々しいほど赤かった。
「兄さんっ、これは…」
「…結界、が破れた…」
 口元の血を拭い、柱を支えにして雪路が立ち上がる。
「兄さん! おきてはいけませんっいったい…」
 ぎり、と歯を食いしばる音が聞こえた。雪矢は歩き出そうとする兄を踏みとどまらせようとしながら、目を瞠る。
「……この地に配している御神鏡が割れた。…それらはこの白神山に大妖を封じ込める結び。――行かなければ」
「兄さん、どこへ行くつもりですかっ!」
 雪路は肩で息を切らしながら、雪矢に目をやった。そして、何もない庇に視線を向ける。
「…橘」
「――ここに」
 雪路の声がかけられるとともに、壁をすりぬけるように黒い長布をかぶった少年が姿を現した。
「雪矢を南の部屋に連れて行け。決して外に出すな」
「……御意」
 どん、と雪矢の背中がおされる。雪矢が踵を返すのを阻むように、両手が黒い影で縛られた。橘の操る式紙だ。
 ぎりぎりと腕をしめつけるそれをねめつけてから、雪矢は白砂に降り立つ雪路の背中にむかって大声を張り上げる。

「兄さん、何をする気ですか!! 兄さん!!」

 雪路は振り向かない。その時、一陣の風と共に、大きな鳥が姿を現した。白い羽毛に、尾が漆黒に艶めく、美しい鳥だ。その嘴には漆塗りの長弓がくわえられている。
 左手に握り皮をもち、雪路が鳥の前で印をくむ。荒々しい呼吸をする唇からこぼれる神呪。雪矢が呆然としている間に鳥はみるみるうちに姿を変え、黒く、雄々しい馬になっていった。
 雪矢は馬首のむいている方角に息をのむ。白神山。つい最近まで神域として、聖なる神を祭る場所としてあがめていた場所。
 だが、そこには先ほど聞かされたおそろしい魔物が封じられているのだ。
 雪矢は腕に血がにじむのもかまわずもがいた。もがいてもがいて、声を張り上げた。 

「そんな身体で、兄さん! 無理です! やめてくださいっ!!」

 だが雪路はその声を振り切って、軽々と馬にまたがり、そのままそこから姿を消した。



 
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