神の杜

第 1 6 話 秋 に 呻 る


 3

「新…、おまえ…」
 雪矢は無意識のうちに階から姿を現してしまっていた。新は雪矢の動揺のまなざしを琥珀の瞳で受け止めると、少し眉をひそめた。だがすぐに俯いて、また長布がその面差しを隠してしまう。
 雪矢はふるえていた。恐れからではない。肺が焼けつくような憤りを覚えていた。何に対して怒っているのか自分でも分からない。
 何故長兄と繋がっているのか。「蒼牙を監視」とは何事だ。何のためにそんなことを兄が新に頼んでいるのか。
 分からない。分かりたくもない。けれど知らなければもっと後悔する。
「何をしているのかな。雪矢」
 まるで背中に氷塊が滑り落ちるような感覚に襲われた。
 雪矢、と。再び上から冷え切った声が降ってくる。雪矢はあらんかぎりの力で拳をつくりながら、兄を見上げた。
「兄さん、どういうことですか」
 兄の問いに答える気はなかった。弟の鬼気迫った様子に、雪路はひとつ息をついてから開いていた扇子を閉じる。
 新がついと顔を上げる。琥珀の瞳が雪矢を通り越して雪路をとらえた。
「新、下がっていい。報告御苦労」
「…は。失礼いたします」
 新は抑揚の抑えた声で応えて立ち上がり、その場から辞した。足もとにしきつめてある白砂が、じゃりと音を立てる。その音が完全に遠ざかるのを待ってから、雪矢はまなじりをあげた。
「……兄さんに仕えているのは、橘(たちばな)ではありませんでしたか?」
 橘は、新の兄の名である。日下家は神代家内外の諜報活動に従事する「鴉(カラス)」の役目を担っている。特に当主の鴉となる日下家長子は、常に影のように主の傍に控えるのがならわしだ。
 主従の縁が途切れた東海家とは違い、日下家と神代家の関係は衰えていない。さらに、橘だけでなく、雪矢が当主にたった暁には新も鴉になることは決まっている。
「少し過ぎた行動をしてる子犬を監視してもらっているんだよ」
 雪路は涼やかに言葉を返し、微動だにしない。雪矢は知らず歯を食いしばった。
「子犬…蒼牙のことですか」
「聞き耳をたてるのは行儀のよいことではないね」
 くっくっく、と雪路は喉を鳴らした。兄の瞳は狂気が孕み、悪寒が背中を駆け抜ける。
 これ以上聞けば、自分の中の大切な何かが瓦解してしまうような予感がした。けれど、ここで問うことをやめてしまったら、もう二度と聞けないだろう。
 雪矢は息を吸った。ひとつ。ふたつ。みっつを数えて、再び問いかける。
「桜を、生贄にするというのは…どういうことですか」
 その問いに雪路は笑みを消した。ゆらり、と階の下で顔の色を失っている弟を見下ろす。
 それから呼吸を10数えても、雪路はなにも言わない。ただ凍てついた表情で雪矢を見下ろしている。痺れを切らして、雪矢はたたみかけるように言葉をつなげた。
「…夏に、あきらさんと兄さんが話していたのを聞きました」
 雪路の扇子を持つ手がにわかにぴくりと動く。雪矢は白砂を踏みしめてまた一歩つめた。白砂は降りやまぬ雨を吸って重くなっていた。足袋に汚れた砂が入る。構わずに、雪矢は言い募った。
 脳裏によみがえるのは恐ろしい夏の記憶。


 ―――桜は、人柱として死んでもらう。


「…桜が、桜が人柱として死ぬとは…何かの冗談ですよね?」
「冗談?」
 雪路は目を丸くしてから、口端を釣り上げた。赤い舌がちらりと蠢く。
「自分の耳が信じられないのかい?」
 穏やかに狂気をはらんで放たれた言葉に、雪矢はひくりと息をつめた。雪路はいよいよ凄艶な笑みを浮かべ、視線を白神山へと投じた。
「……神代の巫女の役目は、海神の愛児の剣に貫かれたのち、山の社でご神体にその骸を喰われることだ」
「なっ、…!!」
 雪矢は愕然とした。兄は、まるで美しい花を賞するかのように言葉を吐いた。それも、恐ろしい事実を。小刻みに震え始める雪矢の脳裏に妹と、弟のように思っている少年が交互に浮かんだ。
 がくりと膝をつきそうになった。目の前が暗くなったり明るくなったりする。いっそこのまま気を失うことが出来たらどんなにか楽だろう。混迷をきわめながらも必死に考えを巡らせる。
 その間にも、兄の唇からこの因習が確かに受け継がれてきたもので、先代の神代の巫女―つまりは祖父の妹―も掟にならって東海の男児に手をかけられたのだと告げられた。

(…蒼牙に、桜を殺させる…?)

 本家に行く前に見た妹の笑顔が、学校で見た蒼牙の姿が、脳裏を駆け抜ける。
 よろめきそうになりながらも持ちこたえて、雪矢はぎり、と奥歯をかみしめた。耳鳴りがする。頭痛に襲われて、これ以上考えたくないと心が悲鳴をあげる。

「なんのためにっ!! なぜご神体にそこまでせねばならないのですかっ!!」
 
 声を荒げてまくしたてる弟を無表情でねめつけて、雪路は淡々と続ける。

「…私たちが祀っているのは太古の昔、この地を荒らした大妖そのもの。この地に大妖を縛(いまし)めるための楔が桜だ」
「な…ッ!!」
「海神の愛児の剣に貫かれた血が、肉が結界を張る。――私たちの一族はそうやってこの地を守ってきた」
「…そん、な…正気の沙汰じゃない…」
 
 震える声音で呟くと、ひやり、とした雪路の声が返ってきた。

「……私たちは、狂っているんだよ」
「僕は…僕は納得できませんッ! そんなの間違っている!」
「雪矢」

 呼ばれた言霊に、縛めをこめたのか、雪矢の身体がぎしりと固まる。雪矢は荒い呼吸を繰り返しながら兄を見上げた。うっすらと目の際に涙をたたえた弟の様子に、雪路は更に畳みかけるように言葉を放る。

「お前はこの西の地を護る一族の次期当主。そうだな? まさか、たかが妾の小娘に情けをかけて、この地を失う道を選ぶなどとは言うまい?」
「……!!!」
 かああっと頭に血が上り、ゆらりと雪矢から白い霊気が溢れでる。ばちばちと竹が弾けるような音をたてて雪矢の霊力と雪路の霊力がぶつかった。雪矢の心の乱れに呼応するように霊力が膨れ上がり、あっけなく雪路の築いた障壁が消え去る。 雪矢は乱暴に階を駆け上り、その勢いのまま雪路に向かって拳を振り上げた。
 兄の痩躯は簡単に吹っ飛ばされる。殴った瞬間のあまりの脆さを厭う暇もなく、雪矢は激した。

『これからは僕と、おまえとで桜を守っていくんだ。――わかるね?』
「あのとき、僕たちで桜を守ろうって兄さんは言った! あれは嘘だったんですか?!」
 信じたくない。兄の口からだけは妹を貶めるような言葉は聞きたくなかった。
 確かに兄と自分は本家出身の母を持つ。だがそれがなんだというのだ。分家の者は純血にこだわり、外から来た義母も、桜も虐げた。『神代家でない』という馬鹿げた理由で人の値を決めつける人間を雪矢は心底腹立たしく思っている。
 立場上雪路は分家の者を諌めることが難しいのも理解している。下卑たことをしているといっても、神代家の為を思ってしているから。だから我慢しているのだと、内心は自分と同じく憤っているのだと疑いもしなかった。
 雪路は壁伝いにゆっくりと身を起して、乱れた襟元を整えた。雪矢は尚も詰め寄る。
「兄さん! 答えてください!」
 黒曜の瞳が雪矢をとらえる。その瞳からは感情の一切が抜け落ちていた。やがて雪路の薄い唇が開く。
「…この家にさえ、生まれなければ」
「え?」
「あの子がこの家に生まれなければ…、っごほっ」
 突然、雪路が口を覆って身を二つに折り曲げる。激しく咳き込んで、ついには膝をついた。雪矢は虚をつかれて立ち尽くした。
「げほっ、ごほっ…ッ…ぐ…っ」 
 妙な咳を繰り返す兄に、雪矢は肩に手を伸ばそうとして、寸前でとめた。
 
 ぱたり。

 磨き上げられた床の上に、ぽつ、ぽつと朱のまだら模様が走る。雪矢は目を見開いた。
「――ッげほっ!!」
 雪路がいっとう大きな咳をすると、口を覆っている掌から血が滴り落ちる。
「兄さん!!」
 今度こそ雪矢は手を伸ばし、雪路の肩を支えるようにした。兄は生来胸の病を患っているが、血を吐いたことはこれまでなかった。雪矢は動揺しながらも、雪路を抱えるように背中に腕をまわした。
(……軽い……)
 もともと平均男性より華奢な兄だったが、軽すぎる。よくよく見れば着物越しでも身体から肉が落ちて薄くなっているのがわかり、頬もげっそりとこけている。肌はまるで死人のように白かった。
 兄に声をかけようとしたその時、視界の端でなにかが光った。
 それが雷だと認識した刹那、荒々しい雷鳴とともに重く、激しい地鳴りが二人を襲った。




-第16話「秋に呻る」終り-



 
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