神の杜
3
「桜」
夢から覚める時のように、感覚がゆっくりと戻ってくる。
未だ思考は判然とせず、あやふやだ。しかし、力が全く入らなくても、温もりを感じることはできる。
自分を包み込むような温かさはどこからくるのだろうと不思議に思ったが、すぐに納得した。
誰かに身体を預けているからだ。
布地に頬を押しつけられている。その下の自分より高い体温は熱く、せわしない鼓動を伝えて来る。
胸が上下する動きに合わせて、自分も呼吸をしていることに気付いた。
そう、生きている。
肩にまわされた腕の中、桜はのろのろと瞼を押し上げた。
「……そうが……くん…」
「………寝ぼけてんの?」
つっけんどんな声に、今度は、頭がはっきりと覚醒した。
慌てて顔をあげれば、間近に端正な顔立ちがある。桜が声を上げる前に、腕がぱっと離された。
腕を離した蒼牙は、そのままそっぽを向いて、おまけにため息をつく。
「棒っきれ触った気分。あんた、全然無いのな」
「……無いって…」
「胸、腰、その他もろもろ。薄すぎ」
あまりといえばあまりにもな言葉に、桜は怒りが沸いてくるのを感じた。
「か、勝手に抱きしめてたのは…そちらじゃないですか」
震えながらなじれば、蒼牙は気分を害したように眉をつりあげた
「は? あんた庇ったの誰だと思ってんの? しがみついてきたくせに」
「え」
庇った。しがみついた。その単語に意識が再び吹っ飛びそうになったけれど、桜はなんとか深呼吸をして持ちこたえた。
そうだ。地震があったのだ。本棚が倒れてきたり、窓が割れたりしていた。
やっと状況を確認する余裕がでてきて、桜は頭を巡らせる。
まず眼にはいったのは、床に散乱したおびただしいほどの本。
次に、桟枠にひっかかった本棚。比較的窓が高い位置にあるため、二人が座ってしまえば隙間はいくらでもあった。それから、落ちた電灯。
最後に、顔に傷を作った蒼牙の姿だった。
桜は目を見張って身体をこわばらせた。
蒼牙の頬に一本の赤い筋ができている。辺りは真っ暗でうすぼんやりとしか確認できないが、他にも傷をこさえているようだった。
彼女がそれを指摘しようとするが、蒼牙に先をこされてしまう。
「どっか痛いとこある? 頭は打ってないはずだけど。背中とか」
「…え?」
その言葉に、自分の身体を見下ろた。ガラスの破片で切ったのか、腕や足にところどころ血がにじんでいるが、大したことはない。背中も痛くはない。それを確認してから、桜は蒼牙に視線を戻した。
「だいじょうぶです。あの、先輩は…」
「ああ、破片で顔とか切ったけど、平気」
(…嘘だ)
桜はすぐに思った。蒼牙は桜をだきすくめるようにして庇ったのだ。
学ランも、その下の白いワイシャツも、ところどころ汚れているし、散乱した本の山が二人の周りだけ不自然に避けてある。
「ほんとうに、それだけ、ですか?」
今にも泣きそうな顔で問われて蒼牙はぎくっとたじろいだ。
桜はじっと蒼牙を見つめる。すると、蒼牙は観念したように両手をあげた。
「落ちてきた本が頭と背中に直撃だったけど、なんてことない」
桜は唇をかんだ。どれも分厚くて、ぶつかったらとても痛いだろう。それでも、自らの身を呈して守ってくれたのだ。
「…庇ってくださって、ありがとうございます。たんこぶ、できましたよね?」
「まあ、多分」
そう返すと、桜が気真面目な表情でずいっと近寄る。蒼牙はぎょっと眼をむいた。
「な、なに」
「どこですか。冷やすものないですけど…私、体温低いので…」
桜はそっと手をのばして蒼牙の頭に触れる。さら、と真っ直ぐな髪が指にからんだ。
つまり撫でるということか。蒼牙は察してから、慌てて桜の手を振り払うように立ちあがった。
がっつん。
「〜〜〜〜〜〜ッ!!」
「せ、せんぱいっ?!」
丁度たんこぶが出来た所に本棚があたり、蒼牙は屈みこんで必死に痛みをやり過ごした。
桜が慌ててぶつけた個所に手を添えて優しく撫でる。
とても気持ちいいのだが、それよりも気恥かしさが勝って、蒼牙は桜の手首を掴んで止めさせた。
「平気だから出るよ。いつまでもこんなとこにいられない」
桜はまだ心配そうだったが、蒼牙の言葉に頷いて、身をおこした。
「あ、気をつけろよ」
がつんっ。
「……人の振り見てわがふり直せって言葉、知ってる?」
「…知っています…」
蒼牙と桜はそろって頭を押さえながら、中腰で閲覧室への道を行く。
二人は足を使ってガラスの破片や電灯の残骸などをよけながら進み、やっとの思いで本棚から脱出できた。
すでに日は暮れて、蒼牙が持っていたペンライトだけが唯一の明りである。
足元を注意しながら進むと、惨たんたる有様が目の前に広がっていた。
自習机はほとんどが倒れていたり、天井からの電灯の重みで真っ二つに割れていたりして、見る影もない。
「…誰も、いませんね…」
「…体育館に行ったんじゃない? 俺らも行くよ」
雨足が、またひどくなったようだった。
一階の階段が崩れかかっていたので、二人は出入り口から外に出るのを諦めた。
校舎を繋ぐブリッジがかかっている二階は比較的被害は少ないようだった。
入ってすぐに蒼牙がカウンターの下に転がっていた懐中電灯を見つけて拾い上げる。その懐中電灯が壊れていないのを確認すると、蒼牙は早々にペンライトを尻ポケットに仕舞った。
「……先輩」
桜は蒼牙の制服の袖を引っ張った。
「え?」
「あの、どうして懐中電灯、壊れてないのに、そこに落ちていたんでしょうか。誰か怪我して、倒れてるとか…」
その言葉に、蒼牙は懐中電灯で辺りを照らした。
ニ階のフロアは置いてあるのは雑誌や映像資料のみで、本棚はほとんどない。
あとは学習スペースになっており、机はやはりひっくりかえっている。
ためしに声をかけたが、反響するばかりで、気配もない。
蒼牙は桜に向き直った。
「とにかく、早く大人のいるとこに行こう。俺たちじゃ何もできない」
「はい」
こくりと素直に頷く桜の手をとって、蒼牙は足を動かした。
◇◇◇
図書館から校舎にうつってみると、窓ガラスが割れたり、机が倒れたりしているものの、黒板やロッカーなど用具のほとんどは耐震補強してあるため、元の位置からさほどずれずにひっそりとしていた。廊下を歩く分には、ガラスの心配だけしていればよかった。
図書館と比べれば、校舎の方は比較的新しいし、耐震補強を兼ねた増築を重ねているので、当然なのかもしれない。
懐中電灯を持った蒼牙に手を引かれながら、桜は眉をひそめた。
(…空気、重い)
そろりと視線を動かすと、廊下側の窓はすべて閉まった状態だった。ガラスが割れた個所から雨風が吹き込んでいる。頬をかすめる風は、生ぬるく、なんだかひどく重苦しい気分にさせた。
それから、異常なほど寒かった。蒼牙は平気なのだろうか。
繋がった右手は温かく、そこだけ残して体温が下がっていくような気がした。
震えないように懸命に左手を握ったり開いたりしたが、効果はない。
桜の様子が変わったことに気付いた蒼牙が肩越しに振り返った。
「寒い?」
「……すこ、し。でも平気です」
「すぐそこに非常口あったはずだから、もう少し我慢してて」
「はい」
廊下の角を曲がって、遠目に非常灯の明りを見つけた時、桜は心底胸をなでおろした。
(これで、逃げ切られる)
「…え…?」
自分の思考に驚いて、桜は声を漏らしていた。幸い蒼牙には聞こえなかったらしく、振り向かない。
(…逃げ切られる…?)
何から。
疑問の答えはすぐにひらめいた。先刻の夢の記憶がまざまざと蘇る。
面の女と、面のない女。
面のない女は、なんと言っていた。
『こちらに来ては駄目』
『逃げて』
『逃げて。はやく』
どくりどくりと暴れる心臓をなだめるように、右手を胸元にあてる。
鎮まっていた恐怖が、不安が、無理やり呼び覚まされる。
知らず身体は震え始め、噛み合わない歯列がかちかちと音をたてた。
『――早く、その場から、お逃げなさいっ!!』
「…神代?」
突然くん、とひじのあたりが引っ張られた。蒼牙は歩みを止めて振り返る。
青ざめた少女が、震えながら自分の腕を掴んでいた。
「怖いの? もうすぐ出口だから」
「…だめ…」
かぼそい声で、せいいっぱいそれだけを口にする。要領を得ない蒼牙は困惑したが、すぐに切り替えて眼光を鋭くする。
「…何か感じるの?」
桜は必死に頷いて、「こわいものが」とおびえた表情で伝えた。
「……見つかってしまったから。はやく、ここから、出ないと、逃げられない」
気づいてしまった。背後から、視線を感じる。じっと桜を見つめている。距離が近いのか遠いのか、分からない。
そしてあろうことかその気配は、判然としないながらも蠢いて、自分たちの向かっている前方にも生じつつあった。
それは、生身の身体をもつ者では有り得ない。
ゆっくりと、『外』へ逃げる道が塞がれていく。身体全体でそれを感じ、桜は自分の肩を抱いた。