神の杜
1
雪矢は、縁側の柱にもたれかかり、ふっと息をついた。視線を庭に巡らせば、秋≠フ草花が咲き乱れ、色鮮やかな風景が広がっている。
あいにくの雨だが、それでも美しい。
季節は夏から駆け足で秋へと変わり、春とはまた一味違う賑やかな草花が咲き誇る季節となった。
儚げに咲きそむる藤袴をぼんやりと見つめている雪矢の背後から、静かな足音が聞こえてくる。雪矢はハッとして居住まいを正して訪れた青年を迎えた。
「…桜が心配かい?」
「あ……、はい。天気も崩れやすいので心細い思いをしていないかと…」
十月に入ってから、雪矢は雪路と共に神域の結界を張るために本家にこもりきりの生活をしている。雪路からは「祭が近いから、この地をより清いものにするため」と説明されたきりだ。
雪矢はその説明をされたとき、声がのどもとから飛び出るのを必死に抑えた。
夏のあの日に聞いた会話。
自分自身再確認するのも恐ろしく、だが兄が話さないのも気になった。
雪矢は数日待ったが、兄からそれ以外の説明はついぞない。
雪路は雪矢のすすめた円座に腰を下ろし、話を続けた。
「菜々子さんに時々様子を見に行ってくれと頼んだから、平気だろう。それから学院の方には私から話を通しておいた」
「ありがとうございます」
頭を下げるときに、そっと兄の横顔を見上げた。顔が紙のように白いため、心なしか気分が悪いように見える。
「…兄さん」
「なんだい?」
「…、いえ、なんでもありません」
気まずい沈黙が続く。雪路は袂に入れていた両手をおろし、動かない表情で雪矢を見た。
「……雪矢」
「当主」
音もなく廂に着物を着た男が立つ。屋敷に仕える式紙のひとつだ。雪路は少し眉をひそめて振り返る。
「何用だ」
「お話のところ、もうしわけありません。ですが、」
男の表情から、雪路は何かをくみ取ったのか、ふっと息をついて立ち上がった。
「雪矢、また後で話そう」
「は、はい」
雪路が足早に立ち去る。足袋が床にこすれる音が遠くなっていってから、雪矢は長く息をついた。胸のあたりが苦しい気がして、ぐい、と掴む。
(いま、兄さん、何を言おうとしたんだ…)
手足がぶるぶると震えている。情けないこときわまりない。
落ち着いてから、ふと先ほどの兄と式紙の会話が気になった。あの会話の時、兄は笑ったのだ。ぞっとするように冷たい笑みを。
何物も逃さない、あの瞳。弟の自分でさえ背筋が凍った。
雪矢はしばし俯いて思案した。兄は何かを隠している。恐ろしいことを。それに何か関係があるのだろうか。
雪矢はおもむろに立ち上がった。
雪路は自室に行ったかと思ったが、違ったようだ。屋敷のほぼ中央に位置する神楽殿で、黒い長布を頭からかぶったものと、小声で話していた。
雪矢はあの長布に見覚えがあった。
(日下家の…)
できるだけ声が聞こえる程度の距離に近づきたい。雪矢はそっと壁から身体を離した。
遠回りだったが、雪路の座っている渡殿の下、階の裏ににもぐりこんだ。日下家の者は階の前にいるので、気づかない。
息を殺して、雪矢は二人の会話を聞きとろうとした。
「そうか。……それで、蒼牙くんは気づいたわけ、か」
「はい。この土地の資料を調べつくしているようです」
抑えた声音は、まだ少年のものだ。よく知っている気がする。
だが、雪矢の知るこの声の主は明朗快活で、もっと闊達とした声を出すはずだ。
「……まったく。大人しく剣舞の練習でもしていればいいものを」
パチン、と雪路が扇子を閉じる音が響いた。雪矢は声の主が気になって、身を乗り出した。
「引き続き監視を頼む。何か事を起こすようだったらすぐに連絡を」
「御意」
そう答えた長布の少年の顔が上がった。
さらりと茶の短髪が揺れる。妹とそっくりの瞳は、感情を感じさせないもの。
雪矢は息をのんだ。まさか。そんなはずはない。
身を乗り出した拍子に、足もとに落ちていた小枝がぱきんと音を立てて割れた。
その音に反応して、少年の瞳が雪矢をとらえる。
雪矢は渇いた声音で少年の名を呼んだ。
「あら、た…?」