神の杜
4
師走に入った。祭が行われるのは大晦日(おおつごもり)だ。蓮の頼んだ山の社は出来上がり、あとは蓮が入るだけで良い状態になった。だから蓮は身の回りの一切のものを整理していた。持っていくものは、いくつかの符と、扇。そして絹糸で作られた白衣と袴―これは神代の巫女の装束である―最後に、何枚かの重ねと単衣、肌着のみである。
この作業は、途中まで常葉に手伝ってもらっていた。けれど、常葉があまりにも痛々しい面持ちでいるのを見るのが耐えられなくなり、下がってもらった。
ふっと微笑んで、つい先ほどの会話を思い出す。
『姫さま…っわたくしをお連れくださらないというのは…真でございますか』
平裏(ひらづつみ※風呂敷のこと)や行李で手狭になった部屋で、蓮と常葉は向かい合って座っていた。蓮は微笑んで、柔らかく言葉を紡ぐ。
『ええ。もう潔斎の時期に入り、食物はほんの少しあれば自分で整えられるし、着替えも自分でできるもの。大丈夫。あなたのことは母上さまに頼み申し上げましたから』
『けれど…姫さまっ』
『常葉』
静かに常葉の言葉を遮る。常葉は常の気丈さを捨て、ぼろぼろと涙をこぼした。蓮は胸がつまるのを感じながらも、それを抑え、再び微笑む。そして、そっと常葉に手を伸ばした。震える常葉の両手をしっかりと握る。
『あなたは…もうあなただけの身体ではないのよ。…武市が悲しむわ』
常葉ははっと瞳を揺るがせた。蓮は慈愛に満ちた表情のままだ。
『…っ姫さま、ごそんじで…?』
『何も祝ってあげられないわたくしを許してね?赤さまと武市のことだけを想って、――どうか、幸せになって。わたくしのお願いよ』
常葉は何か言いかけたが、静かに微笑む主の中にある確かな覚悟を感じ取ったのか、唇を噛みしめて、こくり、と頷いた。けれど、彼女の涙はその後止まらなかった。
その後、父や母との対面を迎える。何時間も両親は蓮と向き合い、話すことがなくなっても、そばにいたがった。しかし、蓮が慎ましげに退室を願い出て、父母との最期の別れを終えた。その後、西の離れに宛がわれた自室に戻る。
いるものといらないもの。いるものが行李ひとつであることが、妙におかしかった。蓮は褥に入る前に、文机の下に置いておいた文箱をそっと手に取る。
中には、さまざまな色合いの花が咲き乱れる押し花があった。すべて、幼き頃清雅にもらったものである。
ひとつひとつを手にとって、しばし昔に思いを馳せる。そして、無意識に唇から歌が漏れた。
「いまひとたびの……いまひとたびの…あうこともがな…」
(もう一度…もう一度だけで良いから、…清雅さまにお逢いしたい…それはもう叶わぬ夢だけれど…)
ぽたり、と押し花に涙のしずくが落ちる。誰もいない部屋。だから心行くまで泣ける。蓮は細い肩を震わせ、流れ落ちる涙をそのままにした。
そのとき、何者かが密かに御簾をこえ、たてかけられた几帳をくぐり、蓮の真後ろに立った。
蓮は唐突に背後に気配をかんじた。驚きで涙を拭うことも忘れて振り向くと、そのまま目の前にいる青年の視線に絡めとられたかのように動けなくなった。
青年はこの室の唯一の灯りである切灯台の炎を指をむけただけで消す。辺りは闇に包まれ、頼りなげな月明かりが室を照らした。
闇夜に紛れる濃紺の狩衣、髪に烏帽子はかぶっておらず後ろで一つに括られている。
蓮は一目で誰かと判断し、言うことのきかぬ身体を叱咤して、手足を使い後ずさりをした。だが、清雅は素早く蓮に近づき、その細い腕をとり、力強くひっぱる。
あっけなく蓮は清雅の胸の中におさまってしまった。加えて腰に手をまわされて、身動きを完全に封じられる。
蓮はそれでも清雅との距離をとろうと必死にもがいた。しかし清雅はびくともしない。蓮は声を震わせた。
「早くお帰りになって…っ…姉上様が…」
その科白に、清雅の蓮を抱く力が強まった。蓮は小さく悲鳴を上げる。
「やはり、雪姫が、そなたを…」
蓮が身を固くした。震えはひどくなる一方だった。耳元で囁かれる低い声。
(このお方の声を聞いては駄目…聞いてしまったら、もう…)
耳を塞いでしまいたい。そう思っても、身体は思うように動かせない。その間に、清雅は静かに、しかり激しさを込めた声音で言った。
「蓮、私はそなたを愛おしいと思っている。初めて会ったときから。何よりも。――雪姫よりも」
蓮の肩がびくっと震える。顔からどんどん血の気がさがっていくのがわかった。清雅はそっと身を離し、蓮を見つめる。
「私を護るために、山に行くと仰せになられたのではないのか?」
「…違います」
蓮は身をよじって清雅から離れようとした。けれどそれは叶わず、顔だけをそむけた形になる。
「雪姫の邪魔になるなら、いっそのこと山に入ると」
「違いますっ違いますっ」
悲鳴に似た声音で否定する。両腕が束縛されているので、顔を覆うことさえできない。あふれ出る心を、押し殺すことができない。
清雅は焦れたように蓮の肩を掴む。深い瞳が蓮の瞳を貫く。あまりにも真っすぐで、烈しい視線をうけて、そらすことが、できない。
清雅は不意に哀しげな表情を浮かべた。
「……愛している。そなただけを」
「……っ…」
清雅の言葉に衝撃をうけ、蓮は身体の力が抜けてしまう。傾いだ身体を、清雅が受け止めた。蓮は清雅の衣を握りしめ、喘ぐように言葉を紡ぐ。
「わたくしと姉上さまは双子ですっ…先日垣間見ました折、声も顔も…瓜二つでございました…っ、その上姉上様は才も長け、ご健康な身体。わたくしよりもっと…っ」
「言うなっ」
落雷のような怒号に、蓮は息を詰まらせた。
「私が妻にしたいのはそなただけだ!雪姫ではない!何度も言っているだろう!それでも信じてもらえないのか…?」
「……わたくし……が…清雅さまの…」
涙がほろり。ほろりと頬を伝う。いつのまにか、蓮は微笑んでいた。清雅は驚いて、思わず腕の力を緩める。
その隙を見逃さず、するりと蓮は清雅の腕を逃げ出していた。十分な距離をとってから、必死に明るい声音を作り出す。
「もう、そのお言葉だけで十分です。…わたくしは…それだけで…」
「蓮…」
呆けたような清雅の声に、胸が、引き裂かれたかのように痛い。
蓮は一度瞑目してから、深く息を吐く。そして、清雅に微笑みかけた。
「清雅さま。わたくしも清雅さまをお慕いしております。けれど…わたくしは一人の女である前に、神代の巫女なのです。そして、あなたは海神の愛児。この地を護るために生きねばなりません」
「そのようなこと…っ聞きたくはない」
清雅は立ち上がって、ほんの数歩で蓮との距離を縮めた。蓮はそれでもなお首を振った。
清雅の表情に苛立ちが昇る。無理やり蓮の腕を掴み、そのまま組み伏せた。蓮は一瞬何が起こったのか理解できなかった。けれど、理解したとたんに体が硬くなる。
「き、清雅さま、おやめに…」
ひっしに声をひきしぼって止めようと清雅を見上げた蓮はそのまま言葉を失ってしまった。
清雅の瞳は濡れていた。やりばのない切なさが、愛おしさが、知らず蓮の心に降り積もる。
「何故だ。何故想い合っているのに結ばれない。わたしは、こんなにも…こんなにも蓮を求めているのに…っ」
清雅の手が蓮の手首を解放し、その小さき手に己の手を絡めた。蓮は抵抗しない。涙を浮かべて、清雅を見つめている。
二人が愛し合うことは禁忌。絶対に侵してはならない領域。
そう叫ぶ己が居るのに、抑えられない。
清雅は、そっと蓮の唇にみずからのそれを寄せる。蓮は生まれて初めてこみ上げる温かさ優しさに身をゆだね、清雅の背に手をまわした。
刹那。
地中深くが唸りをあげたかのように屋敷が揺れる。そして北の対で突如明るい青い閃光がほとばしり、まっすぐ二人のいる東の対の離れに落ちた。