神の杜

断 章 恋 に 朽 ち な む


 3

 ゆっくりと意識が浮上する。ひっそりとした話し声が、朧げに聞こえてくる。
「本当に…常葉が気付いていなければ、どうなっていたか…考えるだけで恐ろしいわ」
「お方様…」
 常葉の声だ。いまだ瞼は思いが、耳がだいぶはっきりしてきた。柔らかい声音が続いて耳朶に触れる。
「下手人を見てはいないの?」
「いえ…、わたくしが入って来た時にはすでに誰もおらず、姫さまが褥でお倒れになっていて…もう、もう本当にこのまま目を覚ましてくださらないかと…」
「大事に至らなくて本当によかったわ……だけど、あそこまでの道は神代家にゆかり深い者しか見えないようになっているのに…」
 胸がずきんと痛んだ。重い瞼を押し上げて、蓮はぎこちなげに首を動かした。そして、声をひきしぼる。
「…は…は…うえ…さま」
 掠れた声音に、露草と常葉が弾かれたように蓮を覗き込む。本当に安堵したように、長く息を吐き、露草は身を乗り出した。その瞳はしっとりと濡れている。
「ああよかった…蓮、母がわかりますか?」
 こくり、と頷いて、蓮は部屋の明るさに不審を抱いた。今まで自分が居た座敷牢ではない。窓に鉄格子ははめられていないし、開け放たれ、揺れる几帳の向こうには美しい庭が広がっていた。
「あの…ここは…」
「母の部屋ですよ。いま、侍女は常葉しかつけていませんから安心なさい。父上以外いらっしゃいませんよ」
「母上さまの…」
 なんともいえない感情が、胸を満たす。知らず母が握っていた手を握り返した。露草はほろり、と涙を零して、繋がっている手を震えながらも強く握りしめる。
 物心ついたときから、この娘のことばかりを案じていた。掟のために、課せられた役目のために、暗い座敷牢に閉じ込められたわが娘を。
 神代の巫女≠ヘ贄となるため、親兄弟から引き離され、外に出ることを固く禁じられる。しかし、太古の昔から伝わっている因習は、時が流れるうちに禁が緩やかとなり、露草や冬道はたびたび蓮を案じて座敷牢に訪れていた。だから、愛情も深い。雪と同じように。否―雪以上に。
「寂しかったでしょう…?母にたんと甘えなさいな」
「…もったいなきお言葉でございます。…ですが、蓮は父上にお話したいことがありますゆえ……。常葉、父上を呼んできてもらって良いかしら」
「?は、い…ただいますぐに」
 蓮は淡く微笑んで、すっと目を細めた。露草は「何か食べるものでも」と席を外したすきにそっと袖で目元をぬぐう。

(…きよまささま…)

 幼き頃、初めて会ったその日から元服するまで、清雅はずっと蓮に会いに来ていた。時には花を持ち、時には珍しい唐菓子を持ち、ずっと話し相手になってくれたのだ。清雅に対する想いが、父母へのものとは違うことに気づいたのは、彼が姉の雪と結婚したと聞いた時だった。
 その時は常になく胸が痛み、息をするのも辛かった。常葉のいる前では必死でこらえていたが、一人になると、必ず涙を零していた。
 この感情は何だろう。あの方を想うだけで胸が熱くなり、痛み、途方もなく切なくなる、この想いは。
 ある日、蓮は唐突に理解してしまう。

 ――あの方を、愛してしまったのだ。分もわきまえず。

 生贄となるためだけに生を受けた自分が、恋をするなど、夢見るだけでも許されない。もし抑えきれないほど、大きなものになってしまったら…と想像するだけでも恐ろしかった。だから、一生懸命に勤めを励み、清雅への想いは胸の奥深くに封印したのだ。

◇ ◇


 冬道は、蓮のたっての願いと聞いて喜色満面な顔つきであぐらをかいていた。しかし、蓮の願い≠聞いた瞬間、その顔をこわばらせた。
「蓮…そなた、いまなんと言ったのだ?」
 蓮は手を添え、頭を下げたまま、同じ科白を繰り返した。
「祭が行われるまで、山神さま傍近くに仕えたいと、申したのでございます」
 露草や常葉の姿はない。蓮が人払いをと父に頼んだからだ。父は震える声で言葉を紡ぐ。
「…それで、よいのか。ここにおれば………わしや母にも会えるのに…」
 蓮は微笑んだ。本来ならば人としての扱いさえも許されない宿命(さだめ)の子どもに、父と母は惜しみない愛情を注いでくれた。――痛いほどに。
「父上さま。蓮は神代の巫女の勤めを疎かにしたくはありませぬ。――だから、座敷牢のかわりに…新しく山の洞に社を建てて頂きたいのです」
「だが、しかし…っ」
「…わたくしの、最初で最後の我儘にございます。――どうぞ、おききうけくださいませ」
 言いきってから、蓮は深く頭を下げた。はらり、と額髪が顔の傍に落ちる。
 そのまま動く様子のない娘を、冬道は複雑な表情で見下ろしていたが、やがてゆっくりと立ち上がり。「わかった」と、静かに首肯した。




 
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