神の杜

断 章 恋 に 朽 ち な む


 2

 神代家の屋敷の北の対屋から更に北へと渡殿を進むと、二重の垣に囲まれた社が現れる。かんぬきを開けられるのは神代本家の者、そして海神の愛児(わだつみのめぐしご)だけだ。中には白砂に囲まれた高床の殿がある。
 剣(つるぎ)の宮、と呼ばれるそこに、清雅はいた。目の前には漆黒の長方形の櫃。青く光る水にひたされていて、底には刃のない剣の柄だけが横たえられている。柄は質素な作りで、黒い絹布にいくつかの小さな宝珠が絡まった銀糸が小さく瞬く。特別な力も感じない。だが、これこそが太古の昔から伝わりし鱗の剣≠ネのだ。
 清雅は視線を上げて、一心に櫃を見つめている雪の姿をとらえた。髪は乱れ、化粧もはがれはじめている。
 清雅は扉で様子をうかがっていた冬道を見た。彼も疲労が表情に出始めている。清正の視線を受け止めると、冬道は雪の傍によって片膝をついた。
「――雪姫、今宵はこれまで…。明日…また行えばよい」
 清雅は静かに目を閉じた。冬道のこの科白は幾度も聞いてきた。最初は飄々としていた冬道も、一か月経てば、焦りが出てきているのが手に取るようにわかる。
「…お父さまっ真にこれは鱗の剣なの? 剣の巫女がどれだけ祈っても、なんの前触れもないし、おかしいわ」
「…剣の目覚めを解くのがそなたの役目じゃ。それを放棄して何とする」
 雪は口をつぐみ、父をひたと睨んだ。その間に清雅は言霊を詠唱し、櫃に蓋をする。祭≠ワで、三月を切った。それまでに剣の封印を解かねば、この地に災いが起こる。それを防ぐには、剣の巫女たる雪が剣の目覚めさせないと何も始まらないのだ。
 雪は俯いて、袴を強く握りしめた。そして、苛立ったように立ち上がる。
「……清雅が悪いわっ! わたくしは清雅を愛してるのにっ! 清雅はわたくしを大切にしてくださらないから、だから封印が解かれないのよっ」
「雪姫ッいい加減にせぬかっ」
 落雷のような怒号が宮の中に響き渡る。雪はびくっと肩を強張らせて、唇をかんだ。冬道は青筋を立てて、常になく感情を露わにした。
「清雅は海神の愛児として修業は積んできた。そなたは剣の巫女としての修業を熱心に積んできたか? 怠っていたであろう!! 少しは蓮を見習わぬかっ!」
「…れ…ん?お父さま、誰のことを」
 これには清雅も驚愕した。思い当たる節は、ひとつしかない。脳裏に儚げな笑みがちらついた。

(あの姫の名だ…間違いない…)

 冬道は、眼を見開き、蒼白な顔つきになった。だが、すぐに呼吸を整え冷やかに雪を見下ろす。
「そなたには、双子の妹姫がおる。対の巫女にあたる者だ。共に祭において重要な要となる」
 もう祭まで三月を切っている。潮時だと思ったのか冬道は雪と清雅に蓮姫のことを語った。
 祭の際、生贄として大妖に捧げられ、大きな結界を創り上げる存在。剣の巫女以上に重い責務だ。それを話して、雪に使命の大切さを説こうとしたのだろう。
清雅は必死に無表情を装ったが、予想以上に顔に感情が出てしまっていたようだ。胸の奥で温めていた心があふれ出していく。それを抑えるのに必死で、自分を凝視している雪のぎらついた視線に気づくことができなかった。

◇ ◇ ◇


 蓮はふと読んでいた草紙から顔をあげた。唯一の光は切灯台のはかなげな炎のゆらめきのみで、すっかりと夜の帳が落ちている。火桶の中の炭がだいぶ少なくなっていた。
 蓮は草紙を閉じて、文机の上に置いた。その後ゆっくりと立ち上がり切灯台の炎を消す。あたり一帯が闇になった……と思ったが、几帳がはたりと揺れて、その向こうから明かりが注がれていることに気づく。
 この座敷牢に繋がる道すべては、夜は完全に閉ざされる。常葉は近くの対屋に控えているが、入ってくることはない。
 蓮は不審に思い、几帳の外へ滑り出る。寒さを凌ぐため三重に囲む形にあった几帳をすべて潜り抜けると、牢の外に、松明を持った白い人影がぼんやりとたっていた。白の単衣を纏った、美しい少女。その顔貌を見て、蓮は絶句する。相手も同じのようだ。引き連れたような声を出した。
 
 ――おのれ自身の顔と、うり二つだったのである。

 蓮は一瞬鏡でも置いてあるのだろうかと錯覚した。だが、少女が身動きしたことでその疑いは打ち消される。
 少女―雪は牢の鉄格子に手をのせた。そして、急に狂ったように笑いだす。蓮は姉の体から発せられる狂気に、言葉を紡ぐことを封じられた。
「…お前が…清雅をたぶらかしたのね」
 うつろな声音が、蓮に降り注ぐ。蓮は目を瞠って、姉を見つめるしかできない。その間に、雪は堰をきったように語りだす。
「清雅はわたくしの夫よ。―でもいつまでたってもわたくしを愛でてくださらない」
 がり、と鉄格子に雪の爪がくいこむ。じわり、とそこに血が滲んだ。蓮は姉におびえていたのも忘れ、悲鳴をあげてその手を取る。
「姉上さまっお手が…っ、?!」
 ものすごい力で蓮の手が握られる。爪が食い込み、血が滲んだ。蓮は突然走った痛みに顔をゆがめる。雪は気にも留めずに叫んだ。
「清雅はわたくしのものよっ!! 誰にも渡さないわっ!!!」
 すっと手が離される。雪はふらふらと牢の横に据え付けてある藁に向かった。懐から小瓶を出し、何かの液体を垂らす。蓮は嗅ぎ慣れぬ匂いに眉をひそめた。

(油…っ…?)

「姉上さま…っ何を…っ」

 蓮は鉄格子越しに叫んだ。だが雪には届かない。雪は妖しげな笑みを浮かべ、油をたらした藁にためらわず松明を放り込んだ。




 
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