神の杜
1
雪の降り積もる音が、格子窓を通して聞こえてくる。
ぼんやりとした視界で辺りを見回す。鉄格子で外と隔てられた座敷牢。幼いころから一度も変わっていない光景がそこに広がっていた。
蓮は薄闇の、ひんやりとした空気に身を一度震わせてから、褥から起き上がった。その拍子に、背丈を超す艶やかな黒髪が帯のように動く。
「お山が…鳴いてる……」
ぽつりとつぶやいて、蓮は瞼を伏せる。
今年で十五。今年の夏にこの座敷牢の中でひっそりと裳儀を迎えた。双子の姉も同じ時期に行い、それは盛大なものだったと兄たちから聞かされた。
「どうかなさいましたか?姫さま」
主が起きだしたのに気づいて、鉄格子の入口を開けて侍女の常葉(ときわ)が入ってくる。蓮よりも一つばかり年上だ。神代家の分家の出で、10の頃から蓮に仕えているので、言ったことはないが姉のような存在だ。
「…なんでもないわ」
常葉がせっせと掃除を初め、壁に隠された出窓を開く。座敷牢の中が明るくなった。無論格子ははめられているが。これを開けるとき、常盤はいつもいやそうな顔をする。
蓮は袂で口を隠しながら、くすくすと笑った。
「常葉ったら。綺麗な顔が台無しだわ」
「……姫さま…、わたくしが姫さまならこの出窓を蹴破っておりますわ」
「まあ…」
常葉の言葉に、蓮は眼をまあるくしてから、おっとりと首をかしげた。
「常葉、何度も言っているでしょう。ここはわたくしのいるべき場所。父上が色々手を加えてくださってるし、とても住みやすいわ」
ふんわりとした主の柔らかい笑顔に、常葉は眉をひそめて、俯いてしまった。蓮は床に戻って身体を横たえて、明るい声で話し続けた。
「常葉、わたくしは体も弱いし、たとえ外に上がってもこうして伏せっているしかできないと思うのよ」
「…蓮姫さま…」
「それに、姉上さまがお健やかにお過ごしだと聞くと、わたくしも楽しいの。やはり双子だからかしらね…」
常葉を見上げて、蓮は穏やかに笑った。曇りのない澄んだ笑顔に、常葉は唇をかみしめた。
もうすこしくらい、妬んだり、嫉んだりしたっていいのに。この姫君はそのような汚れた感情を持ち合わせておられない。いつも慈愛に満ちた笑顔や声で、こちらの心の澱を拭い去ってくれる。
(どうして…この方が剣の巫女に選ばれなかったのだろう…)
常葉はそう考えずにはいられない。目の前の主は神代の巫女。そして姉姫さまが剣の巫女だ。
神代家、東海家は、太古の昔神殺しの大妖をこの地に封印し、微々たる力ながらも少しずつその大妖を屠ってきた。神代家からの生贄と、東海家に代々伝わる鱗の剣≠フ力を使って。
生贄には、神代の巫女。そして鱗の剣の眠りを覚ますのが、剣の巫女だ。大妖の封印が弱まりし時が近付くと、占者が二人の巫女を選び出す。定まった役目は覆せない。生贄になる姫君は、人知れず座敷牢にて育ち、その時を待つ。
それが掟。
「常葉…?申し訳ないのだけれど、もうひとつ重ねを持ってきてくれるかしら?今日はとても冷え込みますから」
「…あっ…はいかしこまりました。蓮姫さま」
常葉は柔らかくほほえむ主に礼をして、一度座敷牢の外へと出て行った。かちゃり、と錠がはめられる。それを、蓮は切ないまなざしで見つめていた。
神代本家屋敷の母屋の横にある西の対屋の中で、美しい少女と、清雅が向き合っていた。
「ねえ清雅?この香はどう?都から取り寄せたのよ」
豪奢な重ねを幾重も纏った雪は紅の差された唇を三日月の形にした。そして、愛しい背の君を見る。
だが、今年の春、夫になった清雅は動かない表情で、雪を見つめていた。そしてただ一言淡泊に返した。
「そうですか」
「――もうっわたくしはあなたの北の方なのよっ!?もっと愛想よくしたらどうなのっ。お渡も少ないし、わたくしのことなど嫌いなのでしょうっ」
気分を害した雪は開いていた扇を閉じて、清雅を睨みつけた。清雅は臆することもなくその視線を受け止める。
「…申し訳ありません。領地のことでいろいろとごたついているので」
「…それにっなんなのその他人行儀な態度ッ!敬語はやめてと何度も…」
「雪姫、それくらいにしておきなさい」
御簾を上げ、ゆったりと歩み寄ってきた女人に、清雅は瞠目した。その女人は紫苑の生地に竜胆丸の文様が控えめに刺繍してある重ねを纏い、優しげな瞳で清雅を見詰めた。
「雪姫、そろそろお稽古の時間ですよ。琴の指南殿が待っておられます」
「そんなものしたくないわっ」
「雪姫」
ぴしゃりとした声音に、雪はぐっと押し黙り、乱暴に対屋を出て行った。その後ろを侍女の小夏が慌てて追いかけていく。
女人はほうっと息をついてから、人払いをして、清雅と向き合う形で上座に座った。清正も居住まいを正す。
「久方ぶりね、清雅」
「はい。お方様におかれましては、ご機嫌麗しゅう存じ奉ります」
女人はおっとりと微笑まれた。その表情は雪とよく似通っているが、どちらかというと妹姫の方を彷彿とさせる。
(私が…いつまでも引きずっているせいもあるがな)
清雅は自嘲気味に小さく笑う。今年で十九。結婚もして腹も据えねばならぬ時期だというのに、いつまでも自分はあどけなき頃の淡い初恋を胸に抱いている。
「今年は不作で、領民たちが窮しているというのに…あの娘はまったく分かっていないんだわ。…甘やかした私たちが原因ね」
ふと女人の声が降ってくる。ハッとして見上げると、困ったような顔つきで視線を床に落としていた。それから沈黙がふつりと訪れる。
火鉢の中で炭が小さく弾ける音ばかりが、室内を満たした。どこかで烏が鳴いている。もうじき夜だ。
冬道の妻−露草は、ふっと息をついてから、清雅に話しかけた。
「……覚悟はできて?清雅」
「は…?」
どこか痛みをはらんだ瞳で、露草は言葉を続ける。
「…剣の巫女と共にアレを屠る覚悟よ」
「……それ…は…」
言葉に詰まり、返答に窮した清雅は俯いた。露草はやわかく微笑んで、口火を切る。
「私はね、覚悟ができていないのよ」
「え?」
驚いて、清雅は顔をあげた。そこには優しく、どこか切なく笑む露草の姿があった。
「………娘を喪うことになるのだもの」
「お方さま…?」
腰を浮かしかけた清雅の姿にハッとしたように口をつぐんで、露草はゆっくりと立ち上がった。
「おしゃべりが過ぎてしまったわね。私は奥へ戻ります」
するすると衣を滑らせて、露草は対屋を出て行った。その後ろ姿を、清雅はいつまでも見つめていた。