神の杜
2
あれは、とても寒い日だったと思う。町では桜が咲き綻ぶ陽気だったが、本家屋敷では雪が降るほど、冷たく凍った風が吹いていた。
雪矢は自分に宛がわれた部屋で、静かに本を読んでいた。麓にある家に電気がついていなかったので、本家屋敷に兄や妹、両親がいると思って来たのだ。しかし、屋敷にも使用人以外いなく、行き先を聞いても首を振られるままだった。
いつもならば、帰ってくれば一目散に妹の桜が駆け寄ってくる。体の弱い子だから、あまり学校にも行けない妹。だから帰ってくればまず遊び相手をするのが雪矢の日課だった。それがないのが少し寂しい。
夕暮れが訪れ、あっという間に夜の帳がおろされる。流石におかしいな、と思い始めたころ、にわかに母屋の方が騒がしくなった。雪矢の部屋は南にあてがわれているので、微かにしか感じられなかったが、沢山の人がうごめく気配がある。
立ち上がって、急いで母屋に向かった。けれど、母屋につながる道すべてに錠がかけられ、入れない。雪矢は眉をひそめて禰宜を呼んだが、『決して開けるな、とのご命令を頂いています。…理由は私にもわかりません…』と申し訳なさそうに返された。
仕方なく自室に戻り、悶々とした時間を過ごした。
どれくらいたっただろう。だんだんと睡魔に襲われてきたころ、部屋の襖が小さく開いた。
『…お兄ちゃんっ』
大好きな兄の姿に、ぱあっと顔を明るくして雪矢は立ち上がった。けれど、すぐに体を強張らせる。雪路が蒼白な顔つきで、人形のように無表情だったからだ。
常とは違った様子に、雪矢はおずおずと雪路の衣の袖を握る。そうすると、雪路ははっとした様子で、雪矢を見下ろした。
その顔に、無数の傷跡があることに気づく。そんなことは滅多にないことなので、雪矢は戸惑ったが、いまは違うことが気になって仕方なかった。
『お兄ちゃん。お父さんは?お母さんは?桜は?』
無邪気に問いかける弟の頭を撫でて、雪路は片膝をついて雪矢と視線を合わせた。烏の濡れ羽色の瞳がゆらゆらと揺れている。
『雪矢…、よく聞くんだ。父上は……仕事先でお亡くなりになった』
『え…』
突然の言葉に、雪矢は目を見開いた。一瞬意味がわからなかった。だから、声がつまって言葉が出てこない。
そんな弟の様子を、雪路は固まった表情のまま見つめながら言葉をつづけた。
『これから忙しくなると思う。…義母上もいなくなるから』
『………お義母さん……も?……そんな……』
やっとそれだけがしぼり出てくる。雪矢は産みの母親の顔を知らない。だから、母と思えるのは義母にあたる梨花子だけだった。雪矢はよくなつき、梨花子もとても慈しんでくれた。そのひともいなくなるなんて、と雪矢は顔をゆがめた。
雪路はふいに雪矢を抱きしめた。その身体が震えているのに気づき、雪矢はハッとする。
『…父上…っ……』
『……っ』
どうして兄が謝るのかがわからなかった。けれど、泣いていることだけはわかった。そうすると、雪矢もこみあげてくるものを抑えることができなくなる。
ぼろぼろと涙がこぼれ、頬がぐっしょりと濡れるまで、雪矢は泣いた。その嗚咽がやむまで、雪路は弟を抱きしめ続けていた。
しばらく経ってから、雪路は雪矢の肩を押して、雪矢を覗き込む。雪路の眼は赤かったが、頬は乾いていた。
袖で雪矢の涙を拭いながら、雪路はゆっくりと噛み砕くように言葉を重ねた。
『これからは僕と、おまえとで桜を守っていくんだ。――わかるね?』
雪矢は大好きな妹の顔を思い浮かべた。何かと親戚から悪く言われることが多く、いままでは父がそれを牽制してきた。しかしそれはもうない。
自分たちしかいないのだ。
それを強く感じて、雪矢はしっかりと頷いた。
それなのに。
「予定通り、桜は生贄として奏上する」
どくり、と心臓が嫌な音をたてた。息をつめて、気配を消して、雪矢はそっと襖に耳をそば立てる。
つう、と首筋を冷たい汗が辿る。
「結界が弱ってきているんだ。急がなければ」
「…結界が弱まってる?」
あきらの鋭い声が飛び、雪路の常になく焦れた言葉が返る。
「…ああ。西の祠も、南の杜の結界が崩れた」
「どうするの?」
「雪矢を補佐におき、二人で結界を繋ぐ」
「…雪矢くんをここに縛るつもり?」
長い沈黙の後、畳の上を足袋がこすれる音が聞こえてきた。雪路が立ち上がり、庭の方に歩んでいったからだ。
「………秘の神楽が行われるまでだ」
「…やっぱりするのね」
小さく息をついたあとにあきらはつぶやくような声音でそういった。それに対し、雪路が毅然とした態度で返す。
「当たり前だ。贄を捧げれば、結界が強まる」
「でも…先代の巫女だって力は強かったと聞いているわ」
「……あれはお祖父さまに過ちがあった。故に結界が弱いものとなったんだよ。私はそんなことは犯さない」
きっぱりとした声に、あきらは一瞬言葉が詰まったように黙りこくった。けれど、ほどなくして涼やかな声が沈黙を破る。
「本当に、できるの?あなたに」
「先ほどから言っているだろう。私は祭をする。そして、桜は人柱として死んでもらう」
雪矢は口を覆う。膝の力が抜けそうになるのをなんとか堪え、足音を消して踵を変えす。渡殿を通り、母屋の戸口をあけて、急いで閉めた。
息が上がる。うまく呼吸ができない。
(なんのことなんだ…?兄さんは…何を…)
どくりどくりと音を立てる心臓の音がやけにうるさく聞こえた。
手足や、唇が震える。体中の血が凍ってしまったかのように寒い。
それでも、頭の中で木霊するのは。
雪路の冷淡な声。あきらの少し戸惑った声。
そして。
『――桜は人柱として死んでもらう』
雪矢は、ずるりと壁伝いに座り込んだ。