神の杜

第 1 5 話 夢 魘


 1

 ふと瞼をあけると、そこは本家屋敷の裏の、鏡池の橋の上だった。ふわり。ひらり。蛍が光の群舞を見せる。
 ぼんやりと辺りを見回した。手足にあまり力が入らない。頭の芯もぼうっとしている。不思議な感覚だった。
 
『ちい姫…』

 声が聞こえる。そっと降り積もるような静かな声音。桜は無意識に足を進めていた。
 橋を渡りきり、深い闇色の衣を纏った森の中を通ると、いくつもの灯篭が吊るしてある橋にたどり着く。
 その向こうに、藤色の衣を着た少女がゆうらりと立っていた。
 不思議と、恐い、という感情が沸き上がらない。

(あ…これ、夢…だ……)

 そう確信しながら、足を進める。向こう側にたどりつくと、少女は愁いを帯びた瞳で微笑んだ。何も言わずに。



 やんわりと手を握られる。誘われるままに少女についていくと、たどりついた先はいつかの洞穴であった。
 けれど、なにか違う。桜は首を傾げてから、あ、と小さく声を漏らした。灯篭には一つも光がないのに、ふんわりと光の靄がかかり、洞の中を照らし出しているのだ。
 少女はひとつ息をついてから、洞穴の中に足を進めた。そこにある光景に、桜は目をみはった。知らず、少女の手を握る力が強くなる。

 洞穴の敷き詰められた石畳の上に、幾百もの女人たちがいる。ゆうらりとした光の輪郭に包まれ、その頬はみな、涙に濡れていた。
 小さくすすり泣く声が、洞穴中に木霊する。よく見ると、その声が、少女たちの輪郭がひとつの細い糸となって上へ上へと浮かんでいく。
 桜は糸の先を見て、あやうく悲鳴をあげそうになった。


 そこにあるのは、二つの赤い光。否――眼。この巨大な洞の中でもおさまりきれないような白い大蛇が、鎌首をもたげ女たちを見下ろしている。
 糸は、大蛇の胴の部分に繋がっていた。そこは漆黒の闇で、その中から、おどろおどろしく響く声が聞こえてくる。


 ――憎しや…

 ――憎しや……わたくしのあの方を…あの方を…返せ…

 そこから噴き荒れる瘴気に、桜は身を固くした。同時に邪気がいくつもの手となって桜と少女に襲い掛かる。桜は少女に縋りついた。
 少女を見上げると、穏やかに微笑んで桜を安心させるように抱き寄せた。いくつもの手が桜に触れるか触れないか、その瞬間に、蒼い光が二人を包み込みそれらを弾き飛ばした。
 
 いくつもの手は胴のもとへ戻り、下から立ち上る光の糸をたぐりよせ始めた。桜は喉をひきつらせた。
 光の糸が大蛇の胎の中に取り込まれるたびに、大蛇が大きくなっていくのだ。
 ――そして、信じがたいことが起こった。

 白蛇の頭と尾が、九つにさけていくのである。それはどんどんと形状をなし、ぼんやりとはしているが確実におぞましい姿になりつつあった。

「こ、れは…」
『…目覚めの時は、近い…。あなたが最後の枷なのよ』
「え…?」
 
 少女は濡れ羽色の瞳を揺らして、腰をかがめて桜と視線を合わせた。

『――私は蓮というの。最後の、…剣の巫女よ』
「剣の…巫女?」
『…この夢は、あなたが起きてしまったら忘れてしまうわ…。どうしても神代の巫女の呪には勝てない…』
 首筋に痛みが走る。そこを思わずおさえて、桜は少女を見上げた。少女は何も言わない。
 桜の琥珀の瞳をじいっと見つめて、少女は柔らかく微笑んだ。そしてその白い頬を撫でる。
『だけど、これだけは……覚えておいて。絶望や憎しみ…悲しみに身を委ねないで頂戴。どんなに、どんなに傷ついて、裏切られたとしても……信じて…』
 誰を。とは少女は言わなかった。けれど、その言葉を言われたときまっさきに心に浮かび上がったのは、あの日滝壺から落ちたあと、自分を叱咤した蒼牙だった。
 知らずに桜はこくりと頷いていた。少女は安心したように微笑む。


『…帰りなさい…現の場所へ…』


◇ ◇ ◇

「桜、駄目だよ。こんなところで寝ちゃ」
 穏やかな柔らかい声。肩を優しくゆすられる。重たい瞼を押し上げると、困ったように笑う雪矢が居た。
 桜は辺りを見回す。静まり返った演舞場だ。すっかりと暗くなっている。壁によりかかって眠ってしまったようだ。宝剣の代わりの木刀が膝の上に乗っていた。
(あ…そうだ…剣舞のところ…練習してたんだ…)
 雪矢は桜の小さな手を握って、眉をひそめた。白い掌に痛々しいほどのマメができ、ところどころ潰れている。あらためて激痛が走り、桜は顔をゆがめた。
「いたた…っ」
「練習するのもいいけど…、やりすぎは駄目だよ」
「うん…ごめんなさい」
 素直に頷いて、桜はほうっと息をついた。なんだか長い夢を見ていた気がする。けれど、よくは思い出せない。
「それじゃあ着替えて、傷の手当てをしてから玄関で待ってて。僕は兄さんにちょっと話があるから。すぐ終わるよ」
「うん。なんだかおなかすいちゃった」
「早く帰って夕御飯の支度をしないとね」
 愛らしく笑う桜の頭を撫でて、雪矢は立ち上がった。桜も立ち上がり、次の間へとはいっていく。それを見届けてから、雪矢は雪路のいる北の居室へと向かった。

 神代本家の屋敷は寝殿造りに少し手を加えた形だ。東西南北の様々な居室。中央には母屋、そして渡殿にぐるりと囲まれ、白い砂利が敷き詰められた神楽殿がある。
 これは、普通神社の方にあるものだ。確かに白神神社の境内にも神楽殿は存在する。だが、この神楽殿は秘の神楽の時のみ使われる。見ることができるのは神代家、東海家だけだ。
 50年に一度、太古の昔から伝わっている重要な祭事に、次期当主としての責務はごまんとある。当主の雪路が神楽の指南に回っているから、その補佐にもつかなければならない。
 高校生の自分がこんなにも大変なのだ。兄はもっと苦労したのだろう。はっきりとは覚えていないが、当主を継いだのは自分よりも年下の時のはずだ。けれども彼は年など関係なくして完璧に仕事をこなしている。加えて術式にかけても当代随一と謳われるほどの実力だ。
 しかし、兄は生来子供が作れない身体である。それだけが悔やまれると一族の者たちが嘆くほど、兄の信任は厚い。
 雪矢は兄を尊敬してやまない。自分もああなりたいと思いながら当主の修行についている。


 雪路の居室に近付くと、先客がいることに気づいた。この心地よい声音は、東海家のあきらだ。
 どうしたものか、と立ち往生している間に耳朶に触れた会話に、雪矢はその場に縛られたかのように動けなくなった。



 
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