神の杜
3
時は少しさかのぼる。
翔に追いかけられて一同が我を忘れて逃げる寸前、桜は思いっきり暗幕に寄りかかり、その拍子に外に出てしまったのだ。
ずるっと暗幕から出て。どすんっと地面に尻もちをついてしまう。一瞬起こったことが理解できなくて、絶叫と一目散に走る足音を呆然と聞いていた。
しばらくしてふと我に戻り、自分の姿を見降ろして慌てふためいた。
「…きゃあっ泥まみれっ」
右足が泥のたまり場につかっている。浴衣の裾にも点々とシミができていた。慌てて立ち上がり、辺りを見回す。見慣れた林が目の前に広がっていた。
(えっと…確かこっちに井戸があったよね)
そこで足を洗おうと思い、桜は小走りに林の中にある井戸に向かった。
慣れたもので、明かりがなくてもすぐにそこについた。ほうっと息をついて、木のふたを外して、井戸の横に立て掛けた。
汲み取り式の井戸から水を汲み、手頃な大きい石に座って足を洗う。それから、泥がべっとりと付着した下駄も洗った。風があるので、すぐ乾くだろう。
ハンカチで見えない程度にシミを抜き取り、ようやく長く息を吐く。それから、足先が乾くまでぼんやりと林の闇を見詰めていた。
どのくらい時間がたったのだろう。急に虫の音が、耳朶に触れる。我にかえって、桜はゆっくりと立ち上がった。
(…そろそろ、戻らなくちゃ…)
その前に、水を飲もう。そう思って水を汲みとり、手ですくってこくこくと飲み干す。冷たくて、澄んだ味に一気に喉の渇きがなおる。
その時、背後でこちらに走り寄ってくる足音が聞こえてきた。不審に思って振り向いて、桜は眼を丸くした。
「あ…東海先輩」
「神代!」
蒼牙は真っ直ぐこちらにやってきた。それから、肩を切らしながら、桜を睨みつける。桜はびくっと肩を震わせた。
「こんな暗がりで一人って危ないだろ!!」
「え、あの……」
「あーもー…」
その場にしゃがみこんだ蒼牙は汗だくで、桜は自分を捜すために走り回ったことを悟った。あれからずいぶんな時間が経ったはずだ。その間暗闇の中を探し続けてくれたのだ。慌てて自分もしゃがんで、桜は頭をさげた。
「ごめんなさいっ心配かけて…っ」
「もう勝手にどっか行くなよ」
蒼牙は憮然とした顔を一度膝におしつけて、顔をあげた。そして今にも泣きそうな桜の頭を撫でて、ようやくホッとしたように笑った。
ふわっと暖かいものが、桜の胸に降り積もる。頬に熱が走って、慌ててうつむいた。蒼牙は不思議そうな顔をしてから、小さく息をつく。
「……俺、疲れた。どっかで休まない?」
「え、でも悠たちは…」
「夜店もうひとまわりするってさ。合流する?」
「…えと…休みたい、です」
こんなに人ごみの中にいたのは久しぶりだ。体調は悪くなっていないが、正直にいえば静かなところで一休みしたい。
蒼牙は立ち上がり、桜に手を差し伸べた。桜はきょとんと蒼牙を見上げる。
「転ぶといけないから」
そう言われて、頬を染めながらおずおずと手を伸ばした。ぎこちなく繋がれた手のひらはあったかくて、とても心地がよかった。
(…手…おっきいなあ…)
そんなことを考えている桜の目の前を、小さな光が横切る。蛍だ。桜は瞬きをしてから、ぱっと顔を明るくした。そして、蒼牙の顔を覗き込む。
「本家のお屋敷のほうに行ってもいいですか?」
「え?」
「見てもらいたいものがあるんです」
桜が蒼牙を連れていったのは、本家屋敷の奥にある、広大な池だった。中央には橋がかけられている。池を取り囲むように、燈篭がおいてあり、ほんのりと光を帯びて水面をてらしていた。その向こうにそびえる白神山の大きさに、蒼牙は一瞬息をのむ。
「いいの?勝手に入っちゃって」
「大丈夫です。分家の方も兄たちも南の客間で宴をひらいておいでですから。奥の母屋には誰もいないんです」
「ふーん。…で、見せたいものって?」
蒼牙の問いかけに、桜はふふっと悪戯っぽくほほえんだ。そして小さく言霊を詠唱する。すると、灯篭の灯りがすべて消えた。
「おまえ術…っ」
蒼牙が夜目にも分かるほど蒼白な顔つきになったのを見て、桜は慌てて顔の前で両手を振った。
「あ、霊力は使ってないですっ。ただ火の神様の子たちにちょっとお休みしてくださいって言っただけです」
「は…?」
ぽかんとする蒼牙を、桜は不思議そうな顔つきで見詰めた。
(霊力もなにもなしで神と対話できるのかよ)
桜はこともなげにやってのけたが、普通の状態で神と対話し、なおかつ意思を疎通させることは何年も修業をして身につけるものだ。
実際、蒼牙だって修業を積んだそのうえで霊力を発動しないと神と対話はできない。凄絶な神気に圧倒されてしまうからだ。
なのに。桜は平然としている。気分が悪くなった様子もない。
(どうなってるんだ…?)
疑問が後をつきない。けれど、繋がってる手のひらが離れて、やっと我に帰った。
「先輩。ほらっ見てみてください」
促されるままに池の方を見ると、光の糸がついついと水面や水際の草の中から現れる。あっという間に数え切れないほどの光が池の周りを舞い始めた。
「蛍…?」
「はい。奇麗でしょう?私この季節はいつもここで蛍見てるんです」
笑みを浮かべる横顔は本当に楽しそうだ。そうするとこちらも幸せな気分になるのだから不思議だ。
蒼牙は桜に魅入っている自分に気づき、ばっと桜から眼をそらした。その時、がさっとポケットの中で何かが音をたてる。
あ。と思わず声を漏らして、蒼牙は紙に包まれたそれを取り出した。そして、蛍と戯れている桜にずいっと差し出す。
「…え?」
「蛍のお礼」
桜はぱちくりと瞬きをして、手の中にある紙の包みをそっと開いた。そして琥珀の瞳をまあるくする。
「あ…あのこれ…」
先ほど露店で見つけた小鏡だった。どうしてこれを蒼牙が持っているのかわからなくて、桜はきょとんとしている。
「ほしそうに見てただろ」
「ぇえっ買ってくださったんですかっ?」
「だから、蛍のお礼って言ってんじゃん。受け取れ」
そっぽを向いている蒼牙の頬は気のせいか心なしか赤い。桜もつられて赤くなる。ぎゅっと鏡を胸に抱きしめた。
「…あ…ありがとうございます。…嬉しい…」
本当に。本当にうれしい。ふわっとまた温かいものが心の中にふりつもる。やさしい感覚に身をゆだね、桜は顔をほころばせた。
蒼牙は一拍おいてから、「ドーモ」と返す。そして、再び桜の手を引っ張った。
「あっちの方が蛍いるよ。いこ」
促されるままに桜はついていく。大切そうに本当にうれしそうに鏡を握りしめながら。そんな桜の気配を背中で感じながら、蒼牙は小さく呟いた。
「……結構似合ってんじゃん」
「え?なにか言いました?」
「さーね」