神の杜

第 1 3 話 縛 め の 楔


 1

 蝉がじわじわと林の中で鳴いている。
 神聖な空気が、神代本家屋敷を取り巻き、音をたてるものは、虫や木々だけと思われた。

「そこは、そうじゃないって何度言ったらわかんだ!この馬鹿弟!」

 神代本家屋敷の東の離れの横に構えられた演舞場から、女性の声が響き渡る。呆気なく、早朝の厳かな雰囲気は崩された。

「うるさいっ!!教え方が悪いんだよ!この馬鹿姉!」
「はあっ?あんた誰に向かって口きいてんの、よ!!」

 あきらは口をとがらせる蒼牙の胸倉を掴んで、思いっきり床に投げ飛ばした。受身で着地した蒼牙は膝を立てて、姉を睨み上げる。
 双方、一分の隙もない。
 そこから少し離れた場所で、桜と雪路はけた外れの姉弟喧嘩を繰り広げる傍観していた。

「あ、あの…止めた方が……」
「無理だろう。…まったく」
 雪路は一つ息をついて、桜に続きをやるように促した。桜は一度あきらと蒼牙を見てから、持っていた扇を開き、続きを舞い始めた。
 桜の舞の所作ひとつひとつには何も綻びがない。幼少の折より舞の指南をうけただけのことはある。たまに扇を落としてしまうくらいだ。だが。
 雪路はちらりと横で未だにぎゃあぎゃあとほえたてている東海姉弟を見る。
「演習を始めて、早四日と経つというのに、毎日毎日…何をやっているんだ」

◇ ◇

 秘の神楽は緩やかな動きから始まるが、後半には神代の巫女と海神の愛児がそれぞれの持つ扇と剣を交換し、比較的珍しい激しい動きが入ってくる。まだ前半の段階しか練習していないが、それでも息があがる。
 横を見れば、体力のある蒼牙も息を切らしていた。持っている剣の長さが、彼には大きすぎるのだろう。加えて、先ほど持たせてもらったのだが、支えがないと持てないほどいくつもの装飾が施された剣は重かった。

 汗のせいで背中に衣が張り付き、喉がカラカラになってきた頃、正午を告げる柏木の音が響いた。
「そろそろ休憩にしよう」
「そうね」
 その言葉に、桜はほっと息をつく。乱れた呼吸を整え、扇を閉じる。そして端座し、雪路に礼をした。蒼牙も横であきらに座礼をしている。
「午前のご指南、ありがとうございました」
「お疲れさま」
「お昼ごはんはここで食べましょ。反省会も兼ねてね。持ってくるわ」
 あきらがすらっと立ち上がる。胴着を涼しげに着こなすその姿は一瞬見ほれてしまうほど奇麗だ。
「ああ私も行こう」
「えっあの…」
 桜は慌てて自分も立ち上がった。そういうことは自分の役割だと思っていたのだ。しかし、雪路は淡く微笑んで桜の頭を撫でる。
「疲れているだろう。次の間で着替えて、待っていなさい」
 その言葉に、桜は何かを言おうとしたが、とりあえず素直に頷いた。そして、二人は演舞場を出ていく。母屋の台所まで、結構距離があるから、30分は戻ってこないだろう。
 次の間とは、演舞場の中に構えられている座敷のことだ。二つあるので更衣室代わりになっている。軽い生地で仕立て上げられた着物に着替え、演舞場への襖を開けて、桜はぱちくりと目を瞬かせた。
「先輩、何やってるんですか?」
「見て分かんない?脱力してんの。あー床冷たいー」
 演舞場のど真ん中で、Tシャツにひざ丈のズボンを履いた蒼牙が板間に寝そべっている。桜はくすっと笑って蒼牙の近くに端座した。
「気持ちいいですか?」
「部活とか運動した後はこれやんのが一番」
「そうなんですか?」
 桜は興味深げに眼を輝かせる。蒼牙は桜を仰ぎ見て、にやっと笑った。
「神代もやれば?」
「えっ?」
「どーせやったことないんでしょ。よくあの練習のあとに正座できるもんだね」
「…癖なんです」
 ぷいっと顔をよこにそらしてから、桜はしばらく思案するそぶりを見せた。それから、にこっと笑って蒼牙の横に身を倒す。
「わ、ほんとだ。気持ち良いですね」
 ひんやりとした木張りの板が、火照った熱を覚ましていく。
「だろ?」
 蒼牙に倣って、桜は仰向けになった。窓から入る風で、すうっと汗がひいていく。とても心地が良い。そのせいか、段々眠気がやってくる。
 視線をそらすと、蒼牙はもう寝息をたてていた。
(午後の練習も頑張らなくちゃ)
 そう思いながら、桜も襲ってくる睡魔に身を委ねた。


「……寝てる」
「見事に爆睡ね。素麺伸びちゃうわ」
 戻ってきた兄と姉は、顔を見合せて、小さく噴き出した。その足元では、まだまだあどけない表情で眠る桜と蒼牙がいる。
「疲れたのねー。今日、いつもよりハードだったし」
 盆を雪路に預けて、桜と蒼牙の頭を撫でる。そうすると桜はすやすやと眠りながら淡い笑みを浮かべ、蒼牙はぴくっと眉をひそめた。



 
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