神の杜
5
気温が急降下すると、大気中で水蒸気が昇華してできたごく小さな氷晶ができる。この現象を……
「…えっと…ハウスダストって言うんでしたっけ?」
「いや、ダイヤモンドダストだろ」
「あ、そっか」
それだ。確か理科の教科書に書いてあった。
蒼牙の指摘に、桜はぽくっと手を叩く。目の前で凄絶な光景が繰り広げられているのに、よくもまあおっとりと構えられるものだ。無意識に頭が痛くなる。
そして、奥座敷で微笑み合いながら、部屋の気温を氷点下に下げている雪路とあきらを見た。
「とりあえず、わたしは謝らないから」
「あきら、名家の一の姫たるもの、引き際を見定めることが大事だよ。そのようなことだと、お見合いも失敗連続だろうね」
それまで余裕の笑みを見せていたあきらは、頬をひきつらせた。けれどすぐににこりと微笑み、応える。
「あんたに関係ないでしょ。見合いを片っ端から断ってるくせに」
「私は身体に障りがあるからね。後継には優秀な雪矢がいるんだ。結婚しなくとも、問題など、ひと欠けらもない」
ハッと鼻で笑って、雪路は肩をすくめた。その仕草が癪に障ったのか、あきらはぎろっと雪路を睨んだ。
ふっと静けさがおりてくる。嵐の前の静けさという奴だろうか。蒼牙は明後日を仰ぎ見て、意識を空の彼方その向こうに馳せた。――その時。
鈴をころがしたような小さな笑い声が、その場に響いた。あきらと雪路が初めて蒼牙と桜を見たかのようにこちらを向く。それくらい舌戦に熱くなっていたようだ。
微妙な雰囲気の中、蒼牙はぎこちなく首を動かして、横を見る。そこには、両手で口元を抑えて、くすくすと笑っている桜が居た。一所懸命こらえようとしているのが分かるが、一度こぼれだしたものは、なかなか抑えられていない。
「か、かみ…」
「桜、どうしたんだい」
咳払いをひとつして、雪路が尋ねた。兄の声に、桜は顔をあげて、頬を染めつつ、愛らしく微笑んだ。
「兄さまの楽しそうなお顔を、初めて見たんですもの。それに、そんなにお話をなさっている姿も……仲がよろしいのですね」
「よくない」
二方から異口同音で言葉を返されて、桜は瞬きをしてから、また口元をほころばせた。蒼牙も思わず小さく噴き出す。
しばらくしてから、あきらが片目を眇めて、身軽に庭にいる二人の前に立つ。茫然としている弟を押しやり、おもむろに桜を抱きしめた。
「可愛いっ!あんなのの妹やめて私の妹にならない?」
「…あきら、それはどういう意味なのかな?」
雪路が口元をひきつらせた。あきらは桜の頭を撫でながらすました顔で言い放つ。
「そのまんまの意味よ。あんたにはそこのちび助をあげるわ」
「姉さん、ふざけんのも大概にしろよ」
「あら、私はいつだって本気よ?」
明らかに蒼牙が不機嫌な顔つきになる。雪路もだ。あきらの腕の中で、桜は珍しい光景に、ただただ微笑まずにはいられなかった。
事が落ち着いてから(30分ほどかかったが)、座敷に桜と蒼牙が並んで端座し、少し距離を置いて、二人の前にあきらと雪路が座った。あきらは二人を交互に見つめて、厳かに言葉を紡ぐ。
「これで、神代の巫女と海神の愛児がそろったわけね」
あきらの言霊に、聞き逃せない発音があって、蒼牙は目を見開いた。
「わだつみっ?!」
思わず大声で聞き返す蒼牙に、あきらは首を傾げて弟を見る。
「…?…海神って書いて、わだつみって読むのよ?なあに雪路教えてなかったの?」
「いや、それは僕の台詞だ。君が教えてなかったんじゃないか」
「あら。ご聡明な当主殿?責任転嫁かしら?」
「いやいや、東海家で紅一点の実力派退魔師のあきらが、まさか自分の弟に教えないはずはないと………過信していたよ」
嘆かわしそうに首を振り、雪路が肩をすくめる。あきらがむっと頬をふくらませて、弟を見下ろした。
「蒼牙、一回しか言わないから脳みそにきざみこみなさい」
「…負け」
「なに?」
「なんでもない」
蒼牙は、すました顔で答えた。あきらは息を吐いて、よどみない口調で語り始めた。
「東海家は代々水の力を借りる術を受け継いできたわね。…あんたは例外だけど。もとはといえば海神(わだつみ)からその力の一端を譲り受けて成り立ったのよ。まあそんな先祖伝来の口伝から、一族の特別な――秘の神楽を舞う男児をそう呼ぶことになっているの」
横で桜が素直に頷いている。だが、蒼牙は自分の一族に伝わってきた口伝に驚く前に、別のことに意識が行っていた。
『ではな―わだつみの愛児』
(――海神の愛児)
口の中でその言霊を呟く。ただの言い伝えによる名前ではない。あの神が呼ぶくらいなのだから、特別なものに違いない。
今後の神楽の練習予定を事細かに雪路が説明している間、蒼牙は頭の中でぐるぐるとめぐる様々な疑問と闘っていた。