神の杜

第 1 2 話 海 神 の 愛 児


 4

「ただいま帰りました」
「おかえりー」
 居間から雪矢の声が返ってくる。桜はベレー帽をとって、階段を小走りであがった。二階には客間や書斎、亡き両親の部屋があり、三階に桜の部屋と雪矢の部屋、そして雪路が使っていた空き室がある。一番奥にある自分の部屋に入って、桜はふうっと息をついた。
 制服から涼しげな水色のワンピースにレースのカーディガンに着替え、居間へと向かう。

「補習どうだった?」
 居間でテレビを見ていた雪矢は立ち上がって、キッチンへと入った。その背中に桜は嬉しそうに言葉を返す。
「東海先輩に教えてもらったの」
「そっか。麦茶飲む?」
「うん」
 差し出された麦茶をうけとって、いっきにのみほす。すると、じんわり身体中にわいていた汗がひいていくような心地がした。
「美味しいっ」
「あはは。よかった。…あ、桜、今日のことは分かってるよね?」
「はい。お兄ちゃんも行くの?」
 兄の質問に丁寧に頷いてから、桜はきょとんと眼を瞬かせる。すると、雪矢はぱっと頬をそめて、口元を手で覆った。
「いや……えっと、僕は二の分家に顔を出してくる」
 その言葉に、桜は目をまるくしてから、嬉しそうに笑う。
「それじゃあ、菜々子姉さまによろしく伝えてね」
 菜々子――とは、二の分家の一の姫のことで、雪矢の許婚だ。雪矢よりも一つ年上で、とても心根が優しく、桜に対しては本当に妹のように接してくれる。ちなみに、政略婚約の仲な二人だが、相思相愛で有名である。
「わかった。僕はもう出るけど、お昼…」
「本家で食べるから大丈夫。行ってらっしゃい」
 あきらかにそわそわしている兄の姿に笑いをこらえながら桜は答えた。最近は本家に行くことがあまり気にならなくなってきた。なぜだかわからないが、数か月前、蒼牙の前で大泣きしてから自分の中でどこかふっきれたような気がする。

◇ ◇

 本家で雪路とともに昼餉を頂いて(少し緊張したが、一所懸命に桜が話を切り出すと、雪路が柔らかく返してくれるので居心地の良いものとなった。)、お茶をのんでまったりしているところに、表の方がにわかに騒がしくなった。きょとんとしている桜に、雪路が小さく笑って口を切る。
「今日は暑いから…、庭に水を撒いてもらうんだよ」
 神代本家屋敷は広く、それにともない庭も広大だ。しかもいくつも点在しているから世話がそれなりに難しい。けれども行き届いた使用人たちのおかげで、枯れることはない。が、夏になると使用人総出で盛大に打ち水をし始めるのだ。使用人たちの中では半ば行事となりつつあるらしい。
 桜はぱっと顔を輝かせてから、頬を紅潮させて身を乗り出すように兄に声をかけた。
「………あ、あの兄さまっ」
「何だい?」
「私も手伝いたいですっ」
 草花や乾いた地面に水を撒く。水を弾いてきらきらと輝く葉や土の匂いが、桜は大好きだった。
 雪路は目を瞠ったまま、桜を凝視している。
「……」
「あ、駄目…ですか…?」
 桜はしゅん、となって縮こまった。そうすると小柄な体が一層小さく見える。その愛らしい様子に雪路は噴き出しそうになるのを抑えながら、穏やかに言葉を紡いだ。
「私の部屋はまだやっていないだろう。―― 一緒にしよう」
「えっ?兄さま、でも…」
「気持ちの良いものだからね。実は私も参加したかったんだ。行こうか」
「……はいっ」

◇ ◇ ◇

 雪路の部屋の庭は、冬≠フ草花が中心的に植えられている。だから、咲いている草花はない。けれど、木々や葉は冬に向けて咲こうと生い茂っている。
 桜はひしゃくとおけをもって、縁側に近い場所に水をまいた。きらきらと水が散る。奇麗だなあと思いながら横を見ると、雪路も穏やかな表情で水を撒いていた。
 それがなんだか嬉しくて、小さく笑う。会話はないが、静かなこの時がとても愛おしく思えた。

(そういえば…東海先輩がいたら、水撒きとか必要ないよね…)

 水を自由自在に操る少年を思い浮かべながら、桜はふとそんなことを思った。だが、すぐに苦笑して、首を振る。
 その矢先。音もなく縁側に立つ人の姿に気づき、桜は驚いてひしゃくを落としてしまった。 
 がらら、と足元でひしゃくが転がる。訝しんで雪路が振り向いた。
「桜?どうし…………………」
 雪路も遅れてそれに気づいた。そして、濡れ羽色の瞳を見開く。縁側の柱に身を預けた女性は、にこっと微笑んだ。少し遅れて、桜は先ほど自分とぶつかった女性だということに気づく。
「私のこと、忘れちゃったかしら?雪路」

「あきらっ?!」

 桜は驚いて兄を見た。雪路の常になく感情を露にし、声を荒げた姿は、見たことがなかったからだ。この現状を測りかねているところに、慌ただしい足音が近づいてくる。次いで現れたのは、蒼牙だった。

「姉さん!!!!勝手に入るなよっ」
 
 ぜいぜいと肩で息をしている蒼牙を見下ろして、あきらはにっこりとほほ笑んだ。そして、容赦なく弟の首根っこを掴んで引き寄せる。ぐえっと蒼牙が声をあげた。

「愚弟の剣舞の指南をしにきたのよ?――久しぶり、桜ちゃん。さっきも会ったわね」
「え…あ、あの…」
 久しぶり、と言われて桜は戸惑った。記憶のどこを探しても目の前の美女の面影が残っていなかったからだ。
 そんな桜の様子に、あきらは一度雪路に目をやってから、くすっと笑った。
「ああそうか。――初めまして≠ノなっちゃうのね。私は、東海あきら。蒼牙の姉で、神楽の指南に来たのよ。よろしくね?」
「あ…っ、お初にお目にかかります。神代桜です。本家の末の妹にあたります。このたびは遠路はるば…」
 さっと庭に片膝をつき、神代家独自の礼をとると、美女は慌てたように声をかけてきた。
「ああ、そんなかたっくるしい挨拶はいいのよっ?それよりも」
 あきらは笑みを深めて、引き寄せていた弟を容赦なく庭先に突き飛ばした。桜が小さく悲鳴をあげる。が、蒼牙は持前の反射神経でなんとか受身をとった。そして、姉を睨み上げる。
「そこの馬鹿弟と一緒に、水撒きを手伝ってきて頂戴?こういうときのための弟なんだから。まず、雪路とお話があるの。ねえ?」
「…」
「一時間くらいしたら戻ってきてね?」
 有無を言わさない声音に、桜はうなずくしかなかった。その横で立ちあがった蒼牙はいまだに不機嫌顔である。
 そして、一言も言葉を発しない雪路の表情は硬かった。



 
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