神の杜

第 1 2 話 海 神 の 愛 児


 3

『――駅ー白神駅ー。終点です。お荷物を…』
 車内のアナウンスコールで、まどろんでいた意識がだんだんとはっきりしてくる。重たい瞼をあげて、車窓の向こうを見ると、懐かしい景色が広がっていた。
 ずれていたサングラスをかけなおして、立ちあがる。艶やかに紅が引かれた唇が笑みの形になった。

◇ ◇

「――で、そのアイスキャンデーのおじさんってのは神出鬼没なわけ?」
 ペダルを漕ぎながら、蒼牙は不機嫌まじりにそうこぼした。後ろでは桜が申し訳なさそうに荷台につかまっている。腰に手を回してくれた方が安全なのだが、桜が頑なに拒否したのでこの体勢だ。だから、比較的ゆっくりとしたスピードになる。
「うーんと……」
 桜がきょろきょろ辺りを見回している間に、学院の傍の商店街を家の方向とは逆に抜け、駅についた。
「あ、いたいたっ先輩!あそこですっアイスキャンデーのおじさんいますっ」
 後ろからはしゃいだ声音が届く。蒼牙は小さな指が指す方向を見た。駅の改札口の前で、カラフルなパラソルの下で恰幅の良い中年の男性が子どもに囲まれている。
 蒼牙は息をついて、空を見上げた。夏の日差しがじりじりと肌をさすような感じがした。
「あっちい…」

「先輩。私頼んできますねっ。何が良いですか?」
 桜が鞄から財布を取り出して蒼牙に問うと、木陰に自転車を止める彼の背中が、ぴたりと止まった。
「…………」
「先輩?…あっ。種類は、結構いろいろあるんですよ?えと…あずきに…レモンに、ミカンに、リンゴ…それからイチゴ…」
「…それ」
 ぼそ、と蒼牙が呟く。桜は指を折るのをやめて、小首を傾げる。
「どれですか?」
「………だから、それ」
「…えっと…いちご…?」
 蒼牙が振り返って、こくりと頷く。思わず桜は脳内で、仏頂面の蒼牙と春先によく食べる苺を思い浮かべる。緑の房に、赤く熟れた小さな実…。

(に、にあわないかも…)

「………すげえ好きなんだよ。悪い?」
 少し耳を赤くして、蒼牙はそっぽを向いた。その仕草がおもしろくて、桜は思わず噴き出した。
「ぷっ」
「………神代?」
 桜は必死に笑みを殺しながら(あまり隠せていないが)くるりと方向転換をする。
「買ってきますねっ」
 ふわっとした笑顔を蒼牙に残して、桜は小走りに駅へ向かった。小柄な後ろ姿が、夏のぎらぎらとした日差しにさらされる。
 蒼牙は、眼を細める。白い肌は透けるようで、一瞬桜の身体が消えてしまうのでは?という錯覚に陥りそうになった。
(……何考えてんだ俺)
 蒼牙は頭を振って、手近にある花壇の上に腰かけた。木のしたはいくらか涼しいが、やっぱり暑い。座っているだけでじわじわと汗が滲んでくる。夏は苦手だ。身体中の水が渇いてしまう気がする。


 改札口付近で並んでいる子供たちや親子連れの列に並んでいると、とんっと肩に何かがぶつかった。その拍子に桜のベレー帽が落ちてしまう。
 ぶつかったのは、すらりと背の高い女のひとだった。髪はさらさらと揺れる黒のセミロング。サングラスで瞳は分からないが目鼻立ちがくっきりしていて、身にまとう服もなんだか華やかだった。
(わあ…奇麗なひと…)
 ぽおっと自分を見つめる桜に、女性はふっと笑って、優雅な身のこなしでベレー帽を拾った。桜は慌ててそれを受け取る。
「わわっありがとうございますっ」
「いいえ。こちらこそ、ぶつかってごめんなさいね」
 形の良い唇から、女性にしては少し低い、けれど涼やかな声が零れる。桜がぶんぶんと首を振ると、軽やかに笑って、女性は踵を返した。
 颯爽とした後ろ姿に、誰もが振り向いて頬を染める。桜はいつまでもその後ろ姿に魅入っていた。
(なんだかかっこいいなあ…っ)
 ぼおっとしている間に、どんどん列の人数が少なくなっていき、桜だけとなった。顔見知りの売り場の男性は、苦笑いをして声をかける。
「おじょーちゃんおじょーちゃん。買わないのかい?」
 その声にはっと我に戻り、桜は慌ててアイスボックスに駆け寄った。
「買います買います!えっと……あずきといちご、ください」
「あいよー二つで100円な」
 桜が100円玉を差し出すと、男性が慣れた手つきでアイスキャンデーを渡す。桜はそれを嬉しそうに受け取った。

 蒼牙の所に戻ると、ぱっと蒼牙の顔が明るくなった。…実際は対して変わらないのだが、なんとなく雰囲気で察知した桜はにこにことイチゴのアイスキャンデーを手渡す。 
「さんきゅー。…お、うまい」
「いただきます」
 蒼牙の横に腰かけて、桜も一口口にする。ひんやりと冷たい味が舌を刺激した。桜は夏だなあ、と思いながら隣を見る。もう半分ほど食べていた蒼牙が訝しげな顔をした。
「…なに?」
「あ、美味しそうに食べるなあって。本当に大好きなんですね」
 素直に言うと、蒼牙が少し口をつぐんだ。あれ?まずいこと言っちゃったかな?と内心ひやひやしている間に、桜の持っているアイスキャンデーがぱくりと食べられる。
「あ、あーっ!!」
「早く食わないと溶けるよ」
 そう言って、蒼牙はぺろっと指先をなめる。桜は半泣きの顔になって自分のアイスキャンデーを見つめた。
「ゆっくり食べるのが好きなんですっ!うーっこんなに減っちゃった…っ。………」
 手の中のアイスバーが半分くらいになってしまった。桜はきっと眉をあげて、蒼牙の持っている棒をひったくった。そして、ぱくっと食べる。口の中にいちごの味が広がった。
「あっおい何すんだよ!」
「お返しですっ!」
 むきになって言葉を返してから、桜は頑張って大きく口をあけた。そしてあずき味の残り半分を食べる。…が。同時にきいいんっと頭が痛くなった。
「〜〜〜〜っ」
「ばーか。無理してがっつくからだよ」
 痛みはすぐに引いた。それにホッとして、口の中に残ったアイスをごくんっと飲み込んでから、桜は頬をそめて蒼牙を睨んだ。
「先輩が食べちゃうからですっ」
「のろのろしてるのが悪い。………あ。なあ今日家の用事あるっつったけど、祭のことで?」
 桜は薄い藤色のハンカチで口をふいてから、膝のうえに手を置いて丁寧に答えた。
「はい。私たちの練習のことについてお話があるそうです。それと……東海家の指南殿が今日参られるらしいです。…どなたなんですか?」
「いや、知らない」
 蒼牙は目を瞬かせた。そんな話、初耳だ。桜は小首を傾げる。
「そうなんですか?」
「うん。まあ今日分かるんでしょ?…で、いつ行けばいいの?」
「夕方の五時です」
「りょーかい」
 ひらりと蒼牙が手をふる。桜はその顔を見て、ぷっと小さく笑った。
「…何」
 くすくす笑いながら、桜はハンカチを蒼牙の口元に持っていく。そしてとんとんと優しく拭いた。蒼牙はきょとんと桜を見つめている。それから、薄くイチゴ色に染まったハンカチを蒼牙に見せる。
「ついてましたよ」
「あーありがと。じゃ、帰ろ」
「はい」
 ハンカチを仕舞って、蒼牙は止めていた自転車を出す。二人の間には何のわだかまりもない自然な雰囲気が流れている。……が。


 桜と蒼牙が仲睦ましそうに駅前にいたのを、千京学院の中等部生何人かが目撃し、二学期に大騒ぎになるのは余談である。



 
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