神の杜

第 1 2 話 海 神 の 愛 児


 2

「…で、これが来ると…」
「あ、こうですねっ」
「そうそう。なんだ。わかってんじゃん」
 桜の横に椅子を寄せた蒼牙の言葉に、桜は嬉しくなった。
 あの後、蒼牙は本当に40分で問題を解き終えてしまった。そして唖然としている桜の机に椅子をよせ、数学を教え始めたのである。
「先輩の教え方がうまいんですよ。すごいなあ……」
「いや別に普通だと思うけど」
「そんなことないです」
 桜はにこにこしながら言葉を返した。事実、蒼牙の教え方は丁寧でとても分かりやすかった。
 そのおかげで、まったく解けなかった応用問題も解くことができたのである。桜は嬉しくて飛び上りたいぐらいだった。それくらい数学が苦手なのだ。
 桜があまりにも正直に褒めるので、蒼牙は無意識に明後日を向いた。手放しに褒められるのはあまり得意ではない。桜の笑顔が明るいから尚更だ。

 ふと、かすかな水の揺らめきを感じて、蒼牙は瞬きをした。
「……神代、何持ってんの?」
「え?」
 桜は筆箱に消しゴムを仕舞いながら、きょとんと蒼牙を見た。蒼牙は眉をひそめて、桜の顔を覗き込む。桜は思わず少し身を引いた。
「な、なにって…?……あっ」
 桜は頬をほんのり染めながら、スカートのポケットを探った。そして出てきた淡い水色の小袋を机の上にのせる。蒼牙が首を傾げている間にその袋の紐をとき、小さな手の上で小さく降った。
 ころん、と半分ほど砕けた蒼い石が転がって出てくる。蒼牙は瞠目した。
「…これ、俺があげたやつ…」
「悠が、拾ってくれていたんです」
「………それ、もう効力ないよ?それに、新しい護符出来たんじゃなかったっけ?」
 自分が入院している間に、東海家当主が新たな護符を創り、神代家へと送られたはずだ。前よりも強固な護符で、桜の記憶が読めてしまう体質も抑えられるようになったらしい。中継ぎの役目御免となった蒼牙は微妙に複雑だったが、自分はまだ彼女を護れる状態ではないので安堵した記憶がある。
 蒼牙の言葉に、桜はふうわりと微笑んだ。知らず、蒼牙の胸の奥に熱が灯る。
「はい。ちゃんと持ってます。…でも、これが一番のお守りなんです」
「…ふうん……?」
 分かったような。分からないような。だが悪い気は起らず、むしろ嬉しい感情が沸いたので、蒼牙はそれ以上は聞かないことにした。
 黙り込んだ蒼牙を不思議そうに見つめて、桜は小首を傾げた。その拍子にふと窓を見て、仰天する。窓に人がはりついていたのだ。
「きゃああっ?!」
 桜の悲鳴に驚いて、蒼牙も窓を見る。そして、あからさまに嫌そうな顔をして立ち上がった。
「………翔…何やってんだよ」
「へっへ〜おーどろいたおどろいたっ」
 窓を開けて、ひょいっとバスケ部のユニフォームを着た翔が二人にもとにやってくる。
「こ、ここ五階…ですよねっ?」
「あ、木に登ってたんよ。俺らそういうの得意やもんなー蒼牙」
 真っ青な顔で問いかける桜に、翔は明るく返した。蒼牙は眉間に皺を寄せる。
「何の用?」
「あーっ桜ちゃんツインテールや―!!」
 翔は蒼牙の質問を無視して、桜にまとわりついた。あげくの果てには桜の髪を引っ張る始末である。
「中澤先輩っ!」
 桜は精一杯翔を睨みつけた。だが、あまり威厳がない。むしろ逆効果だったりする。
 蒼牙はむっと頬を口をとがらせる。それから翔の手を払いのけて、二人の間に身体を割り込ませた。後ろで桜がほっと息をついたのが分かった。翔はおもんないーっと頬をふくらませてから、にかっと笑った。
「今日の夜、俺らのクラスと1−Aで肝試しやるんよ。それ教えにきたんや」
「肝試し…?」
「夏休みのオリエンテーション。一学期にみんなで決めたんや。そんでな、1年のA組と被ってたから、どうせなら一緒にやろいう話になってなあ…」
「…めんどいな」
(そういえば…悠がオリエンテーションのこと言ってたなあ…)
 今年は2年生と一緒にやるんだ。と呟いた桜の手を、急に翔が引っ張った。
「ひゃっ!?」
「桜ちゃん来られへん?」
「えっ?あ、…いえ私は…っ」
「あらま。苦手なん?」
「いや苦手というかなんというか…っ」
 慌てふためいて、必死に弁解する桜の肩が強く掴まれて、身体が急に後ろに引っ張られた。後ろを見ると、あからさまに不機嫌な蒼牙が翔を睨んでる。
「俺ら、今日は冬の祭のことで神代家に行くことになってんの。だから無理。欠席な。じゃ、帰るぞ神代」
「へ?補習は…」
「終わってんだからもういいだろ。じゃあな翔」 
 一連の展開について行けなくて、桜は唖然とした。だがそうしている間に鞄を押し付けられて、気づけば手を引っ張られて教室を出ていた。
 呆気にとられた翔は数秒間を置いてから、げらげらと笑いだす。その声が廊下にまで木霊して、余計に蒼牙は苛々した。
「せ、先輩」
「……何だよ」
「どうして今日家の用事があるって分かったんですか?」

 間。

「………は?」
「私言い忘れてたのに…お兄ちゃんから聞いたんですか?」
 そう問いかける桜の顔は、不思議そうだった。蒼牙は口をつぐんでしばらく沈黙してから、小さく噴き出す。その拍子に自然に繋がっていた手が離れた。
「えっ?えっ?」
「いやなんでもない。…そうだ。神代なんかおごれよ」
「………へ?」
「ばーか。俺の教師代。タダですむとおもってんの?」
 頭を小突かれて、桜は少し頬を膨らませた。けれど、教えてもらったことは事実。ここは素直に応じることにしよう。
「…わかりました。何がいいですか?」
「アイスキャンデー」
「あ、私、あずき味と抹茶が好きです」
 桜はぱあっと顔を明るくして、軽い足取りで階段を降りた。その横で、蒼牙がぽつりと呟く。
「……渋いな」



 
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