神の杜

第 1 2 話 海 神 の 愛 児


 1

 神代家の若き当主、神代雪路は見事な細工が施された鏡を前にして、常とはうってかわった凍てついた表情を浮かべていた。持っている扇子を閉じたり開いたりして、どこか思案気でもある。しばらくしてから、彼はふと扇子を畳の上に置いた。
 それと同時に襖の向こうから使用人の声が聞こえてくる。
「当主、東京の東海家のご当主様からお電話が参っております」
「分かった」
 立ちあがり、この部屋と庭を挟んだ所にある母屋に向かう。いつも食事をとる部屋に入り、そこに置いてある電話の受話器をとった。
「…もしもし。雪路ですが。………今日、師範殿がこちらに?……それはまた、急なお話ですね」
『はははっ色々とごたついていまして。連絡が遅れたこと、誠に申し訳ない』
 東海家当主の、闊達とした声音に苦笑しながら、雪路は言葉をつづけた。
「して指南殿はどなたが?」
『…雪路殿もよく知っている方ですよ。でも内緒にしておきましょう。ではこれにて』
 がちゃり、と電話が途切れる。雪路は息をついて、縁側越しの庭を見た。季節は夏。夏の草花が生き生きと咲き乱れている。池を見ると、二匹の鯉が仲良く涼しげに泳いでいた。
 
◇ ◇

 蒼牙はあくびをしながら、南校舎の階段を上っていた。五階について、ふと窓を見る。窓の向こうは夏の日差しを受けて輝く海が広がっていた。窓際によって林を抜けて、煉瓦塀の向こうにある浜辺を覗き込むと、水泳部が準備運動をしているのが見える。
 静まりかえった廊下には五月蠅いくらいの蝉しぐれが降り注いでいる。
 今日は補習の日だ。桜も一緒だと言っていたから、たぶん同じ教室で行われるだろう。なんていったって名門校だ。追試、補習においこまれるものなど、外部が入ってくる高等部ならまだしも中等部まではいない。
 指定された教室に近づくと、男性の声が聞こえてきた。

「……神代は基礎が分かっているんだがなあ」
「す、すみません…」

 教室を覗き込むと、数学の教師と、一所懸命にシャーペンを動かしている桜の姿があった。予想通り補習を受けるのは二人だけだ。
「おはよーございます」
「お、東海。遅いぞ」
「寝坊です」
「……堂々と言い切れるお前はすごいな」
 教師の言葉を受け流して、神代の席の横に鞄を置いた。桜はそうっと蒼牙を見上げて、小さな声で「おはようございます」と言ってきた。それに「はよ」と返しながらちらっと桜のプリントを見る。何度も何度も消しゴムで消した跡があった。
 教師は一度教卓に戻り、厚いプリントの束を持って、蒼牙の机の上にドンっと置いた。
「……何ですかこれ」
「遅刻してきた罰。これ今日全部解けよ。ちなみに2日分だ」
「は?」
 蒼牙は一気に脱力した。駄目だ。やる気がまったく失せた。そのまま机につっぷした蒼牙を無視して、教師は桜に声をかける。
「神代は…そうだな、まずはそのプリント解けるように努力しろ。国語はもうやり終わったからな」
「はい」
 桜はこくんと頷いた。その隣の机には2、3枚解き終わった問題用紙が重ねてある。数学に時間がかかることを見越して、朝早く来て、得意科目である国語を終わらせておいたのだ。
 
「…よし。俺はちょっと部活の様子を見てくる。地区大会控えてんだよ」

 教師が言った言葉に、桜と蒼牙が同時に問題用紙から顔をあげた。
「…へ?」
 異口同音で返されると、教師は面倒くさそうに言葉を並べる。
「あのな、補習と言っても自習だから。追試の時だけ監督官がつくんだよ。それに、クーラーがぶっ壊れたこの部屋にいるのは地獄だ」
「えっじゃあ分からないところがあったら」
 桜が必死に手をあげて主張すると、さらりと答えが返ってきた。
「東海に聞け。編入試験満点だったからなっ!」
 そう言いきると、教師はばたばたと慌ただしく教室を出ていった。桜と蒼牙はぽかんと口をあけたまま、しばし沈黙する。それから、お互いの顔をみやった。
 蒼牙が桜が持っている数学のプリントに視線を移す。桜は顔を赤くした。まだ半分も出来ていないのだ。
「………数学苦手なの?」
「…すごく、苦手です」
 千京学院は成績順でクラスが分けられている。苦手と言っても桜はA組にいるのだから、ひどいものではないだろう。おそらく地道にこつこつと苦手を克服しているのではないか。だが、今回は自分同様休んでいたのだから、桜の持っているプリントが半分以上真っ白なのは仕方あるまい。
 蒼牙が口をへの字に曲げて、自分の机の上に置いてある問題用紙を見る。そして、何やら眉をひそめて、時計を見上げた。桜ははっとして声をかける。
「あのっ私のことは気にしないでくださいっ」
「………40分」
「…ふえ?」
 きょとん、とする桜の顔を見て、蒼牙はきっぱり言い切った。
「40分待ってて。終わらせる」
「ぇえっ?!…でも…っ」 
「それまで自力で解く努力しろ。いいな」
 有無を言わせない声音だったため、桜はぐっと口をつぐんでから、素直に頷いた。それから蒼牙は筆箱からシャーペンをとりだして問題を解き始める。すらすらと迷いのなく動くペン先に唖然としてから、桜も慌ててシャーペンを動かす。

(とりあえず基礎問題だけでも解いておこう)

 そう思いながらも、無意識に瞳だけが隣に向いてしまう。その先には蒼牙の横顔があった。問題を解く表情は真剣そのもので、なぜか、頬に熱が走った。
 バッと視線をプリントに戻す。頬はどんどん熱くなり、胸の鼓動が速くなる。

(な、なんだろ…へんなの…)

 ぱたぱた頬を仰いで気を取り直し、桜は問題に取り組み始めた。



 
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