神の杜

第 1 1 話 夏 に さ ざ め く


 4

 大鳥居の下で、まだ若い女性と千京学院の高等部の制服に身を包んだ少年が向き合っていた。
『……申し訳ありません。義母上…叔父上たちを説得することが、できなくて…』
『…良いのよ。雪路さん。…決まった事なのだから』
 雪路の義母―梨花子は力なく頭を振った。雪路は俯いて、唇をかむ。
『でも……父上の葬式にも出られないなんて………』
 己の無力さを恥じる息子が愛おしく、梨花子ははらはらと涙をこぼした。
 血はつながっていなくとも、雪路も雪矢も自分の大切な息子だ。特に、雪路は、これから当主の座につく。十六歳の少年には重すぎるものを、背負うことになる。
 それを思うと、自分がもっと強ければ、しっかりしていれば、と後悔の思いが後を絶たない。
 その時、雪路の背後から、小さな少女がふらふらと歩いてきた。梨花子はハッとする。傍には雪矢がついていて、表情は硬い。
 やっとで母親のもとについた少女は、梨花子の膝に抱きついて、顔を見上げた。その首筋にある白い包帯が痛々しい。
 けれど、桜は無邪気に母親に笑いかけた。梨花子の脳裏に、夫である雪都の最期が浮かぶ。そして、唇を噛みしめた。
 この幼子に、あのおぞましい記憶がないのが、せめてもの救い。それだけで良いのだ。
『おたあさま?おたあさま、どこいくの?』
 梨花子は目元の涙をぬぐって、桜をひしと抱きしめた。
『桜、お母さまはね、もう一緒にはいられないのよ』
『どうして?じゃあさくらもいくっ』
 きょとんと首をかしげて、にこにこしながら桜は梨花子を見上げた。梨花子は込み上げる愛しさを懸命に抑えながら、つとめて厳しい声音を作った。
『我儘を言わないで。またすぐに会えるわ。だから…雪路さんや雪矢さんの言うことを、よく聞くのよ?』
 頭を撫でる。きっと、成長していくうちに自分のことはおぼろげな記憶になっていくだろう。分かっていることなのに、やはり悲しみはこらえきれない。
『……はい』
 桜は素直に頷いた。生来聞き分けがよく、大人しい娘。他人の感情を敏感に感じ取ってしまう。
 辛い思いをするだろう。分家からの扱いもひどくなるはずだ。そして、この先逃れられない宿命においても。
『桜、おいで』
 雪路が静かに桜を促した。桜は兄と母とを交互に見て、そして、一瞬顔をくしゃくしゃにする。まあるい白い頬をぽたぽたと涙が伝った。
 梨花子は、桜の背中をとんとんと叩き、静かに押した。桜は母を振り返り、小さくうなずいて、雪路に抱きついた。雪路は桜を抱き上げる。その横で雪矢が桜の頭を優しく撫でた。
 梨花子は頭を下げて、振り切るように石段を下りた。後ろで母を呼ぶ幼い声がする。けれど、決して振り返らなかった。
 頬を零れ落ちる涙を、止めることは決してできなかったから。

◇ ◇

「今日はとても天気が良いね。身体の具合もいいんじゃないか?梨花子」
 中年の男性が、隣の女性に柔らかく声をかける。浅黄色の着物を着た女性は、くすくすと笑みを浮かべた。
「…そうね。とても良い気持ちだわ。…でも兄さん、こんなに頻繁に来なくても良いのよ?」
「何を言う。可愛い妹を見舞って何が悪い」
 憮然とした調子で返されて、梨花子は微笑んだ。日下家の皆は自分と温かく接してくれている。とても、幸せだ。
 けれども、時折…病気になってからは頻繁に思い出してしまうのが、幼い娘の顔。
 どのように育っただろうか。自分と亡き夫、どちらに似てきているのか。そんな想いにかられると、なかなかそれから抜け出せない。
「……今日は、新も来ているはずだ。蒼牙くんの見舞いで…」
「まあ。そうなの…」
 甥にあたる新は、梨花子にそれとなく桜の様子を伝えてくれる。梨花子自身もよく気にかけてくれる優しい甥は、弟のような存在だ。
「あら…あそこにいるのは新くんじゃないかしら。…?今日は悠ちゃんと一緒じゃな…」
 途中で言葉を切って、梨花子は息をのんだ。そして傍らの兄を見上げる。そしらぬ顔で、兄は口火を切った。
「ああ、桜ちゃんじゃないか?」
 ここから随分と離れた木陰のベンチに、新と……桜が座っている。桜は、こちらをまっすぐに見つめて、困ったような表情を浮かべていた。
 すぐには気づけないほど、大きくなっていた。けれど澄んだ瞳だけは、昔のまま。透き通った琥珀の瞳は、自分と同じ色。けれど、顔立ちはどこか亡き夫、雪都を思い出させるものだった。
 駆け寄りたい衝動にかられ、梨花子は必死にそれを抑えた。口を震える手のひらで覆い、見つめているのが精いっぱいだった。
 そうしているうちに、二人の傍に、少年と少女が駆け寄ってくる。悠と、蒼牙だ。
 悠が突然桜に抱きついて、桜が驚いたような顔を浮かべる。あっけにとられている新に対して、蒼牙が首を振って肩をすくめた。どうやら謝っているらしい。

 そして。

「梨花子………?」
「……良い、お友達がいるのね……」

 友人たちに囲まれて、桜が浮かべたのは温かな笑顔だった。きらきらと瞳は輝いて、頬が紅潮している。笑い声が、こちらまで届いてくるかと思うほどの笑顔。
 ふいに、桜がこちらを向いた。梨花子と視線が合う。桜は少し恥じらったように俯いてから、梨花子をまっすぐ見つめて、柔らかく微笑んだ。

「………桜………」

 声をかけることはできないけれど。歩み寄って、抱きしめることもできないけれど。それでも、あの子はいま幸せなのだと、伝わってくる。
 心の中から熱が生まれ、だんだんとそれが大きくなっていった。それに応えるように、両の瞳から涙が零れおちていく。

「梨花子…」
「兄さん。ありがとう……もう充分よ…。病室に戻りましょう」

 兄は少し躊躇ってから、頷いて梨花子の肩を支えた。桜達に背を向ける形になると、我慢しきれなかったようだ。嗚咽を漏らしながら梨花子は泣いた。ほろり、ほろりとそれは地面に落ちる。


 桜は、いつまでも、遠ざかっていく母の背中を見つめた。完全に建物の中に入ってしまうまで。そうして小さく。本当に小さく囁く。

「おかあさん」

 蒼牙だけは、その小さな囁きに気付いたようだった。だが、何も言わない。桜は蒼牙を見つめて、もう一度微笑んだ。
 
「なあアイス食おうっ」
「悠太るぜ〜」
「うるさいっ東海の快気祝いだっ」

 悠と新の声が辺りに響き渡る。桜と蒼牙は顔を見合せて、小さく笑いあう。
 そんな四人の頭上で、夏の匂いを孕んだ風が、木々を揺らした。




-第11話「夏にさざめく」終り-



 
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