神の杜

第 1 1 話 夏 に さ ざ め く


 3

 病院に着くと、新は蒼牙の病棟とは別の病棟に向かって歩いた。
「…新兄さま?こっちは…」
「なんか蒼牙、いま最後の検査してるらしいんだ。こっちで暇つぶそうぜ」
 桜は首をかしげながらもその言葉を素直に信じた。新は一瞬白い建物を仰ぎ見て、唇をかみしめる。
 それから、辺りを見回して、丁度木陰のベンチを発見し、桜にそこへ座るように促した。
「俺、飲みもん買ってくるからな。待ってろ」
「ありがとうございます」
 笑顔で返して、桜はふうっと息をついた。
 退院してから、体の調子は順調に快復した。けれど、なかなか本家から出ることは許されなかった。
(私が…いけないんだけどね…)
 部外者である蒼牙を、助けるためとはいえ白神山にいれてしまったのだ。それについて、雪路、分家当主から慇懃に怒られた。幸い、呼ばれた分家の当主は桜に好意的な、一、二、三の家からだったので罵倒されることはなかった。けれど、兄たちに迷惑をかけてしまった。それが悔やまれる。
 母や父の代わりに自分を育ててきてくれた兄たちなのに。そのような気持ちが、なお一層神代の巫女≠立派に務めて見せようという意欲に繋がった。
 ぼうっとしていた桜の頬にぴとっと冷たいものがはりつく。驚いて横を見上げれば、快活に笑う新の姿があった。
「桜は、緑茶で良いんだよな」
「はい」
 差し出された紙コップを受け取って、桜は一口飲んだ。予想外に喉が渇いていたことに気づく。この暑さだから当然だが。
 嬉しそうに飲む桜の横顔を見つめながら、ふいに新が口を開いた。
「桜は、叔母さんのこと覚えてんのか?」
「…っ、え?」
 突然の質問に、むせそうになりながら桜は驚いた。新にとっての叔母とは、桜の母のことだ。母に関してのことは誰もが口にしないことが暗黙の了解となっている。だからいきなりの言葉に、とてもびっくりした。
 それでも桜は紙コップを膝の上に置いて、言葉を選びながら口を切った。
「そう、ですね……写真でしか見たことありませんし…でも…お兄ちゃんは…とっても優しい人だったって言ってました。それに……とても温かくて、奇麗な人だったことはなんとなく覚えてるかも……」
「そっか…」
 新は笑った。その笑顔がなんだか痛いものを我慢しているようなものに思えて、桜は眉をひそめる。
「…新兄さま…あの……」
「桜の母ちゃんがここの病棟に入院してる」
 ぽつりと紡がれた言葉に、桜は息をつめた。新は、笑顔を消して、真顔で桜を見つめる。
「…叔母さん、もうあんまり長くないんだ。…外出られる回数も減ってきてる。寝てる方が多いくらいなんだ」
「……そんな…」
 桜は思わず口を覆った。新は一つ息をついてから、言葉をつづけた。
「会えるのは、今日しかないかもしれない」
「………新兄さまっ…まさか…」
 新は頷いた。桜は掌を握りしめる。桜が母に会うことは禁じられている。日下家にも厳重に命が下ったはずだ。もしそれを破れば、何があるかわからない。
「大丈夫。バレやしないって」
「でも…」
「それとも、母ちゃんに会いたくない?」
「………わ、かん、ない…です…だ、けど……」
(……会いたい)
 それが嘘偽りのない感情だった。神代家の第二邸の居間には、桜の母の写真が飾られている。いつか、幼いときに、雪路に問いかけたことがあった。まだ雪路が高校生で、自分が小学校の低学年だった時だ。
『お兄ちゃま…、わたしとお兄ちゃまは母さまが違うのに…どうしてかざってくれるの…?』
 今にして思えば、なんてことを聞いたんだろうと思う。けれど、そのとき長兄は穏やかに微笑んで、言葉を返した。
『桜のお母様は、私にとっても母だからだよ。…会っては、いけないけれど…』
 優しい、温かな声音で、答えてくれた。とても嬉しくて、しばらく雪路にまとわりついて甘えたほど。
「……お兄さまとの…約束は……破れません」
「……ううん。そう来たか」
 新は隣で唸った。桜は慌てる。困らせるつもりはなかったのだ。
「………じゃあ遠くから、見るだけ。話さなくていいぜ。それなら会ったことになんないんじゃね?」
「…え…?」
「人生臨機応変が大事大事。…頼むよ。桜」
 新がぺこっと頭を下げる。桜は驚いて声をあげた。
「新兄さまっ頭をあげて…」
「じゃあ良いのか?」
「う…っ……話さない、なら……」
 桜は複雑な心境ながらも、承諾した。新は顔をあげて、本当にうれしそうな顔をした。それに対して桜も微笑む。少しばかり胸がいたんだけれど。

 母に逢いたいのは、兄たちも一緒なのでは、と思ったからだ。

◇ ◇

「おまえ…篠田じゃないな」
 蒼牙は鋭敏な瞳を悠にむけた。すると、悠は目を細めて、ころころと笑い声をたてる。
「…遅いぞ。童。まあ死にかけて霊力が削がれているのもあるだろうが」
「誰だ」
 鋭く問う。生身の人間ならともかく、相当の霊力をもった人間に完全に憑依するとは、只者ではない。異形か、それとも…。
 一瞬の隙もない少年の視線を、あしらうように鼻で笑って、悠は低く声を上げた。
「この娘と近しい血を持つ者。だが、神といっても過言ではないな」
「………先ほどの言葉はどういう意味だ」
「はて?何か言ったかな?」
 小首をかしげて、神はまた笑った。そして、蒼牙をひたと見据える。その視線の威圧は、神以外の何者でもない。
「何、永の眠りから覚めた時、珍しいやつが目の前におったのでなあ。少しからかってみたくなったのだ」
 くくっと喉の奥で笑って、神は空を仰ぐ。そして南方を指し示した。蒼牙は眉をひそめる。
「私はイフヤ。会いたければ南の杜に来るといい。ではな―わだつみの愛児」
「は?わだつ、み…?…おいっちょっとま…っ」
 蒼牙の言葉などもう聞く気はないようだった。悠の身体からほのかに金色の光が抜け出ていく。蒼牙は舌打ちした。
(勝手に言って、勝手に去んのかよ)
 だが、あの神の意味深な言葉は、白神山、そして神代家に関わることだろう。おそらく、自分や桜にも関係がある。
 だが、何もかもつじつまがあったわけじゃない。余計に頭がこんがらがったようだ。
「…あれ?」
 地団太をふみたくなっていた蒼牙の目の前で、悠がきょとんと眼を瞬かせた。どうやら戻ったようだ。
「あたしら、廊下にいなかったっけ?」
「………知らない」

 蒼牙は脱力して、その場に座り込んだ。



 
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