神の杜

第 1 1 話 夏 に さ ざ め く


 2

「そういえば…桜、学校の補習はいつからだっけ」
「あ、えっと…来週からだよ」

 雪矢の何気ない問いに、桜はわざわざ箸を置いて丁寧に応えた。
 今日は奥の部屋で久方ぶりに三人兄妹揃っての昼餉だった。桜が明らかに緊張しているので、雪矢は桜の心をほぐすため話しかけたのである。
 その光景を雪路は嘆息交じりで見つめた。人の話を聞くときはきちんとした姿勢を取る。教えたのは自分たちだが…なんというか、本当に申し分のない妹だ。



「身体の調子はどうだい?」
 雪路の問いに、桜は一瞬驚いたような顔をしてから、花がほころぶように笑った。そして両手を拳にしてぶんぶん振る。
「もう大丈夫ですっすごく元気ですっ」
「そうか…それはなにより」
「蒼牙も明日退院だし、祭の練習も予定通りに行えますね」
 雪矢の明るい声に、桜も頷く。緊張と不安、そして絶対に最後までやりとげてみようという気持ちが入り混じって、なんだか胸が高揚した。

「うぃーっすこんちはーっ」

 その時、神代本家の玄関に元気の良い少年の声が響き渡る。奥の部屋にもその声は伝わった。桜はきょとん、と目を瞬かせた。
 しばらくして、使用人の女性が一声かけてから襖を開き、一礼をする。
「お嬢さま、日下家の新殿がお見えです」
「え…?あ…っ大変」
 桜は慌てふためいた。蒼牙を見舞うために、今日の一時、昼ごはんを食べたら神代家の石段の下で新と待ち合わせしようという約束をしていたのだ。
 この部屋に時計はないが、約束の時間が過ぎてしまったのかもしれない。
 ごちそうさま、と早口で言い、桜は兄たちに手をついて礼をした。
「出かけてまいります」
「うんいってらっしゃい。蒼牙によろしくね」
「夕方には戻ってきなさい」
「はい」

 兄たちの言葉に素直に頷いて、桜はぱたぱたと出ていった。その可愛らしい足音がある一点を過ぎて、聞こえなくなる…と同時に床と何かが盛大にぶつかる音と悲鳴があがった。
「まあっお嬢さまっ」
 廊下に控えていた女性が慌てて桜のもとへ行く。そのあとに一所懸命「大丈夫大丈夫」と返す柔らかい声が聞こえてきた。

「……転びましたね…」
「思いっきり顔をぶつけたみたいだね」

 雪路と雪矢はお互いの顔を見合せて、小さく笑いあう。
 そんな二人の間を絹のように柔らかな風が横切り、風鈴がちりりと鳴いた。


「……桜、また転んじまったのか?」
「うっどうしてわかるんですかっ?」
 玄関に桜が来たとき、新は開口一番にそう言った。桜は恥ずかしさで顔を赤らめる。ちゃんと顔は冷やしたはずなのに。どこかすりむいたのだろうか。
「鼻血が出てるぜ」
「ぇえっ」
 ぎょっとして桜は鼻を抑える。その動作に新はぷっと吹き出した。そして、両手を広げておどけてみせる。
「嘘ぴょーんっ」
「……新兄さま」
 桜は頬を膨らませてぷいっと顔をそむけた。からかい甲斐のある可愛いいとこだなあと思いながら、新は引っ張ってきた自転車を指し示す。
「よしよし。じゃ、病院行こうぜ」
「はいっ」
「あ。ほらよ」
 嬉々として後ろに座った桜の頭に新が被っていた赤のキャップ帽がのる。桜はきょとんとして新を見上げた。
「今日結構日差しがつえーからさ。被っとけ」
「え、でも」
「よーし行くぞー」
「ゎわっ速いっ速いですっ」
 新はぐんぐんスピードを上げて、本家を横切り、境内を突っ切って、大鳥居の横にある坂をブレーキを使わずに降りた。桜はしっかり新につかまって声なき悲鳴をあげる。

◇ ◇ ◇

「………神代家の当主の妻は分家からとるって聞いたけど」
 沈黙がたっぷりと続いてから、蒼牙が口を切った。悠の言った言葉に、衝撃をうけたからだ。
 神代家は血の濃さにこだわり、数多ある分家の中で特に高い権力を持つ五つの分家から妻を取るのが習わしだ。現に、次期当主雪矢には生まれる前から定められた婚約者がいる。その人の出身は二の分家だ。他の例など考えられない。
 悠は瞬きをしてから言葉を返す。
「ああ。雪路さんと雪兄の母親はそうだよ」
「……後妻の子どもが神代ってわけか」
 蒼牙は呟くように言った。それで納得がいく。桜が兄たちに気を遣い、分家の者たちの蔑みも、半分外の家の血が入っているからだ。それが親しい間柄の日下家とはいえ、あの一族は血の純潔さに拘っている。
「そ。まあ分家のやつらにとっては、妾の子ってわけ」
「………」
「ちなみに、桜は母に会うことを許されてない」
 蒼牙は目を見開く。悠は新と桜に投じていた視線を蒼牙に戻し、口を開いた。その両の瞳に金色の焔が揺らめいた。蒼牙ははっと息を呑む。


「六年前、神代家が禁じたからな。――はてさて、神代家も珍妙なものだ。恋に捕らわれた女の妄執を鎮めるために何百年かかっているのやら」




 
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