神の杜

第 1 1 話 夏 に さ ざ め く


 1

 蒼牙が怪我を全快する間に季節は巡り、夏がやってきた。
 蒼牙のいる病室の窓は南側で、海を一望できた。空と海の深い青が溶け合う水平線の上に、入道雲がもくもくとふくれあがっている。東京では珍しい景色に、無意識に見入ってしまった。
(夏だなあ…)
 ぼんやりと窓の向こうを見つめていると、柔らかく自分を呼ぶ声が聞こえた。そちらを見ると、衣服をせわしなくたたんでいる祖母と目が合う。祖母は手を動かしながら、言葉を紡いだ。
「忘れものはないの?明日退院なんだからね」 
「ばあちゃん…だから、自分でできるって」
「いけません。ごちゃごちゃにするでしょう」
 ぴしゃりと言われて、蒼牙は黙りこくった。風呂敷の上に丁寧に衣服を並べている祖母は、ふと手をとめて、蒼牙を見た。
「そういえば……この前、東京から電話がきたのよ。あなた、このこと言っておかなかったんでしょう。わたしも失念して悪かったけれど…。蒼史がびっくりしていたわ」

 父親の名前を出されて、蒼牙は苦い顔つきをした。絶対に受話器を置いた後笑ったに違いない。現に、東京から来た手紙には「ああ未熟。哀れ我が愚息」と一言のみ筆で書かれていた。あのくそ親父は息子の失敗がおもしろおかしくてたまらないらしい。
 生死の境をさまよったのだから、それなりに心配してもいいだろうに、と祖母がたしなめたら、返ってきた答えが「死にかけて強くなっていくんだ。大事なのは経験経験」である。

(何度も死にかけてたまるか。ぜってえ見返してやる。くそ親父)

 心の中に新たな誓いを刻み込み、握りしめた拳を震わせる。その間にも祖母の和歌子は困ったように頬に手を当てる。

「澄子さんなんて、昨夜電話したとき、すっ飛んできそうな勢いで……」
「げっ」
「もちろん丁重にお断りしたわ。そうしたらきっと蒼史も来るでしょうしね。当主と妻が不在だなんて大変だもの。代わりにあきらが来るようなことを言っていたけど…おかしいわね…」
「いや来なくていい来なくていい」
 むしろ来るなと心で念じて、嘆息した。

 自分の家族は俺を玩具にするきらいがある。母親が幼い頃亡くなったせいもあるだろうか…いや、ない。父親が馬鹿にする代わりに、叔母の澄子はいまだ息子離れ出来ていない状態なのだ。姉は………言葉にできない。
 東京の日々を思い出すと、懐かしさよりも先に怒りが湧いてくる。家族の自分に対する行動が「愛情の裏返し」なのだと蒼牙が理解するのは当分先だろう。

「失礼しまーす」
 病室のドアががらりと開き、ひょこっと制服姿の悠が顔を出す。
「あらあら悠ちゃん。こんにちは」
「こんにちは。ばっちゃん。東海借りてもいいですか?」
「良いですよ。ほらほら蒼ちゃん行ってらっしゃい。あなたがそこにいると片付けにくいのよ」
 せきたてられるようにベッドから追い出される。蒼牙は不機嫌顔で祖母を見つめてから、悠のもとに行った。
「何か用?」
 こら蒼ちゃん。と後ろからたしなめる声が聞こえてくるが、蒼牙は聞こえないふりをした。悠はきょとんとしてから、当たり前のように言葉を返す。
「桜も新も、他の奴も用事あるから、暇つぶしがいないんだ」
「……」
 消去法かよ。と心中でつっこんでから、とりあえず蒼牙は悠と共に廊下へ出る。すると、突然悠が廊下のはじっこに座り込んで声を押し殺して笑い始めた。

「そ、そ、そうちゃんって…っ…まだそう呼ばれてるんだなっ…あははははっそ、そうちゃん…っ」
「…篠田、俺をからかいにきたんなら、病人らしく寝てたいんだけど」
「もう治ってるだろ?…く…っそう、ちゃん…っぎゃはははははっ」
 それから、看護婦が「お嬢様、病院ではお静かに」とたしなめにくるまで、悠は笑い転げ続け、蒼牙はむすっとした顔つきで廊下によりかかっていた。

◇ ◇ ◇

「今日終業式だったの?」
 やっと悠の笑いがおさまり、外へ行くことになった。病院の棟と棟をつなぐ渡り廊下に出て、庭を散策しながら蒼牙は悠に聞いた。
「うん。ああ期末死んだー…。そういや、東海テストとかどうすんだ?」
「夏休みに補習して、テスト」
「あ、じゃあ桜と一緒だな」
 その言葉に、蒼牙はぱちぱちと瞬きをした。桜は自分よりも先に退院したはずだ。
「神代、学校行ってなかったのか?」
「うん。本家でずっと静養してたから。…まあめずらしくないよ。休むことの方が多いしな」
 桜の身体が弱いのは知っているが、蒼牙は眉をひそめた。多分、身体の療養もだろうが、この前の一件が一枚噛んでいるだろう。
 雪路が直々に見舞いに訪れた時のことを思い出す。桜のことについて丁重に礼を言われただけだったが、後ろの桜が青ざめた顔つきだった。

 早々と雪路が立ち去った後に、桜からぽつりぽつりと聞いたことによると、自分はどうやら白神山の神域に入ってしまったらしい。
『祭までは…東海家男児はあそこに足を踏み入れてはいけない掟なんだそうです』
 それで、雪路と分家当主から厳重に注意を受けたそうだ。
『…俺、白神山にいたの?』
『……あ、えと…私が勝手にそこに来てしまったから……。先輩には責任はありません。大丈夫です』
 桜はふうわりと微笑んで、蒼牙が言葉を返す前に、病室を出ていった。あまり長居はするなと、釘を刺されていたのだろう。


「………あ。新と桜」


 蒼牙が悶々と考えている横で、悠がついと指をさす。蒼牙の入院している棟の二つ隣の棟の渡り廊下の近くのベンチで桜と新が二人座っていた。
 距離があるので声は聞こえないが、仲良く談笑をしているようだ。何故か蒼牙の胸がざわついた。
 そんな蒼牙の様子に気づいたのか、悠はうーんと唸ってから、口を切った。
「あいつら、いとこだぞ?」
「………へ?」
 蒼牙は間抜けな声を出して、悠を見上げた。悠の身長は新とほぼおなじだから、首が疲れる。
 身長伸ばさないとなと心の隅で呟きつつ、蒼牙は首を傾げる。
「いとこって……」
「新の父ちゃんの妹が桜の母ちゃんなんだ。知らなかったのか?」



 
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