神の杜

断 章 凍 て し 月


 1



 たわわに実る稲を刈りながら、一人の百姓が顔をあげた。段々と続く田圃の畦道に、身なりの整った少年が従者を連れて何かをやっている。
「おや、東海の若様だ」
「何をしておられるのだ?」
 隣の百姓も腰を上げる。日に焼けた肌に玉のような汗がふきだしていた。少し離れたところで鍬を担いだ青年が口を切った。
「領主さまの命でこの土地一帯の様子を見に来たって話を聞きましたがねえ」
「ほう。あのお若さでてえしたもんだ」
「そうだのう。さあさもうひとふんばりだ」

◇ ◇

「…今年は豊作だな。これならば民の生活にも潤いが出るだろう」
 さらさらと持っている料紙に文字を綴り、丁寧におりたたみ、横にいる付き人の武市に渡す。武市は穏やかに笑みを浮かべる。
「まことに。領主さまのご采配のおかげです。そして、白神様の加護のおかげとも」
「……そうだな」
 清雅は後方にある猛々しい霊峰を見上げ、苦笑する。その横で、武市が懐から伽羅の薫りがする文を取り出した。
「忘れておりました。雪姫様から、お文が届いていたのですよ」
「…そのまま忘れておけば良いのに」
「なにを仰られます。北の方さまになられるお方にそのような…」
「…少し遠乗りをしてくる。文の返事は適当にしておいてくれ」
 冷たくあしらって、傍にとめおいておいた馬に向う清雅の袖を、武市が引っ張った。武市より小柄な清雅は簡単に体勢が崩れる。
「なりません。若…今日こそは御挨拶にまいられないと。姫君もお可哀そうです」
「……わかっているが…気分がのらないのだ」
 清雅が小さく息をつく。元服をして、早三年。東海家嫡男としての務めも立派にこなし、都でも名高い若君も、こうしているとまだまだ幼く見えるのが不思議だ。
 武市は笑みをかみ殺すために、咳ばらいをひとつ。
「では参りましょう。――神代本家へ」
「………わかったよ」


 神代本家屋敷は、都にある大臣の屋敷にも劣らぬ寝殿造りだ。だが母屋だけは特殊なつくりで、類をみないほど広く、奥へ行けばいくほど、行き慣れたものではないと迷うほどである。
 清雅は女房に案内され、寝殿に通された。御簾があげられたそのさきに、穏やかな風貌の男がひとり。
 年は四十を迎える少し前。まだまだ肌の張りがあり、皺の数も少ない端正な面立ちは、青年の雰囲気さえも醸し出している。だが、この男こそ、神代本家当主、神代冬道である。
 清雅は膝をついて一礼をした。
「おお清雅」
「冬道さまには、ご機嫌麗しく…」
「堅苦しい挨拶は良い。どうじゃ、領民の様子は」
 扇で肩を叩きながら、冬道は問いかけた。
「今年は豊作。――領民たちの生活にも潤いがゆくでしょう」
「それはよきこと」
 冬道はにこにこと笑いながら手を叩く。すると女房が高杯を捧げ持って入ってきた。
「大陸で評判の菓子だそうだ。美味いぞ」
「…では。ありがたく」
 懐紙をとりだし、菓子を口にいれ、その味を味わう。
 ふと、清雅は冬道を見た。
「………時に、父から、祭≠ェ執り行われる年が決まったと、聞き及んだのですが」
 冬道は顔をあげ、清雅を見た。表情は硬く、瞳は鋭い。その視線に威圧されるのを感じた。
「……そうだ。四年後に執り行う」
 四年。清雅は口の中で呟いた。
「祭りについての仔細は……冬道さまから仰ぐようにと父から命じられました。」
 幼少のころから、自分には二つの使命があるのだと父から言い聞かせられていた。一つは東海家当主となること。そして、もう一つは、不定期に執り行われる白神山を祀る祭の重要な要となること。
「……清雅は、いくつだったか」
「今年で十五となります」
「そうか……。時が経つのは、早いものだ。………我が姫が成長するのも」
 そう言いながら冬道は庭先に目を投じる。その先にあるのは母屋の隣に建てられた奥の対屋だ。母屋よりも大きく、北の方さまや、ご側室。またそのご息女が住まわれている。
 そして。
 清雅は目を細めた。あの名も知らない少女が閉じ込められているのも、奥の対屋だ。
 ふと、冬道が腰を上げ、清雅に近づいた。そして、清雅の目の前で膝を折る。慌てて清雅は頭を下げた。
「この話は家人には悟られぬようにしておる。…耳を近う」
 
◇ ◇ ◇

「清雅っ清雅!」
 渡殿を歩いていると、後ろから小さな足音が聞こえてくる。清雅は一瞬眉をひそめてから、小さく息をついて振り返る。
 鮮やかな牡丹が咲き乱れる蘇芳の重ねに燈色の長袴を履いた少女が近づいてくる。髪は肩先を少し過ぎたばかり。冬道の一の姫―雪姫だ。
「雪姫さま」
 膝を折ると、すねたような顔で雪は冬道を見上げる。丸い頬は白粉がはたかれ、唇には紅がひかれている。今年で十二歳。小柄で、美しい姫君だ。
「どうしてお父様のところへ行ったのに、わたしの所へは来られないのっ?」
「申し訳ございません。――仕事が忙しいもので」
「仕事なんてやめてしまえばいいのにっ…そうだわ、お父様から…」
 清雅の袂を握りしめて、頬を膨らます雪の後ろから、慌てて雪の乳母が駆けつけてくる。
「姫さまっあまり無理を言うものではございませんよ」
「うるさいわよっ。…ねえ清雅、わたしお化粧をしたのよ?奇麗でしょう?」
 清雅は内心うんざりしながら、言葉を返した。
「姫さま、姫さまはまだ子どもであられるのだから、化粧は…」
「何よっ失礼ねっ」
「それでは、私は下がらせていただきます」
 淡々と頭を下げ、袂から雪の手を剥がし、清雅は踵を返した。今だに何かわめきたてているが、いつものことだ。


 表門をくぐると、武市が馬をひきつれて進みでてきた。困ったような顔で屋敷を見上げている。
「またお泣かせになられたのですね」
 その言葉には応えず、清雅は空を見上げた。すっかり宵のとばりは落ち、武市の持っている松明がなければ足もとが見えない。
 今日は下弦の月。月読の光が、冷め冷めと地上を照らす。
「若…?」
「………私がほしいのは、牡丹ではない」
「は?」
「何でもない。帰るぞ」
 
 馬に跨り、手綱を引く。一瞬神代家の屋敷を振り返った。
 すぐに屋敷はどんどんと遠のいていく。そして、闇に覆い隠された。
 清雅は口を引き結び、頭を振った。

 自分がほしいと思うのは、雪姫ではない。
 同じ顔、同じ声。だけれど、まったく違う。

 座敷牢の中、自分をみつめる瞳が、忘れられない。まだ胸に焼き付いている。最後にあったのは、元服の前の夜だった。
 幼いながらも祝いの言葉をのべて、少女は微笑んでいた。
 愛しい、とその時始めて思った。



(私が愛しいと、思うのは薄闇にひっそりと灯る、白梅の花なのだ…)




 だがそれは、禁忌の想いだった。




-断章「凍てし月」終り-


 
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