神の杜

第 1 0 話 君 が た め


 2



「………こんにちは」
 たっぷり一分間ほど沈黙してから、桜が先に口を開いた。俯いていた顔を上げ、真っすぐに蒼牙を見つめる。
 どこまでも透明な琥珀の瞳におされるようにして、蒼牙は少し口をひきつらせた。
「お、おす」
「ご無事で、よかったです。助けていただいて、ありがとうございました」
 桜は無表情で、しかも淡々とした口調で言葉を紡ぐ。いつかの対面の儀を思わせるような彼女の態度に首をかしげながらも蒼牙は言葉を返した。
「いや、それ俺の台詞だし。神代が…」
「先輩」
 蒼牙を呼ぶ声音が、少し震える。蒼牙は瞬きをして桜を見た。桜は、唇を一度強くかみしめてから、口を切った。
「先輩の傷は、私の傷を代わりに請け負ったものなんですよね?」
 蒼牙は口をぽかんとあけてから、舌打ちをしたい気分になった。多分教えたのは新だ。
(新、あんのやろーっ…)
 あとでぶちのめす、と心に堅く誓っていた蒼牙に、桜は無表情で問いかけた。
「どうしてそんな術を使ったんですか?」
「へ?あ、いや…勢いで」
 そう。あの時はそれが最良の策だと考えた。桜は、祟神の邪気をまともに受けたうえに怪我までしたのだ。放っておけば危ない。だが、自分ができる術の中で傷を全快させられるものはなかった。
 そこで、彼女の傷を引き受けることを考えた。自分は男だし、体力もあるから大丈夫だと。そう思って、あの術を行使したのだ。…昏倒してしまったが。
 ふいに、淡々と蒼牙を見下ろしていた桜の琥珀の瞳が、大きく揺れた。蒼牙はひくりと口をひきつらせた。
「え、なに?」
 桜は、膝の上で交差していた掌を拳にして、再び俯いた。さら、と細い黒髪が零れて、彼女の表情を隠す。
「…ばか……」
「は?」
 囁くような声に、蒼牙は眉をひそめる。起き上がることができないから、桜の表情は見えないままだ。
「ほんと、ばかです、よね…」
 膝の上の小さな手が震える。桜はぎゅう、っとズボンを握り締めた。
「かみ…」
「私、ほんと、役に立たなくて、迷惑かけて、あげくのはてに、先輩を……っ殺しちゃうところだった…っ」
 あの時、どんどんと冷たくなっていく蒼牙の手を握りしめながら、何度も自分を責めた。
 どうして。どうして自分はこうなのだろう。よかれと思った行動をとっても、必ず誰かを傷つける。今まで、ずっとそうだった。
 どうすればいい。どうすれば良いのだと、何度も何度も問いかけた。
「いや、殺すなんて」
 乾いた笑いで返した蒼牙をきっと睨んで、桜は常になく声を荒げた。
「先輩はご存じないかもしれませんがっ先日まで先輩ICUにいたんですよ?!」
「はは…ICU…」
 蒼牙はなんとも馴染みのない単語に笑うしかなかった。
 この十余年怪我以外で病院にお世話になったことはない。そんな自分の人生でICUにいけたんだからすごいもんだ。
 蒼牙がぼんやりしている頭でそんなことを考えている間に、桜はまた俯いた。
「私…情けなくて…っくやしく、て…っ…でも先輩も許せなくって…」
 そう。初めはただ悔しかった。自分を責め続けた。でも蒼牙が自分を助けるために、術を使ったことも、決して許すことはできなかったのである。
 蒼牙は桜のたどたどしい声音から感情をくみとり、唖然とした。

 ――分かっていたはずだったのに。この少女が己のために誰かが犠牲になることを、とても恐れていることは。
 だから、自分があの時最善の策だと思ったとはいえ、あの術を行使したことは、彼女に、深い傷を負わせてしまった。
(…俺、馬鹿か?)
 まだまだ修行が足りない。今まで自分の力を高めることしか頭になかった。
 そして、護るべきものを、全力で護ろうと心に決めていた。
 だが、それではまだ足りない。誰かを護り、なおかつ自分を活かせる術を、身につけなければ。
 護るべきものを、傷つけたくはないから。だから、もっと強くならなければならない。
 蒼牙は己の無力さにはがゆさを感じ、奥歯を噛みしめた。

◇ ◇

 しばらく沈黙が続いてから、急に、桜が顔をあげて、その琥珀の瞳でまっすぐに蒼牙を射抜いた。
「…先輩っ」
「っなに?」
 いきなり話しかけられて、びっくりしながら蒼牙は桜を見た。桜は笑みを浮かべて、強い意志を瞳に彩らせ、言葉をつづける。
「…私、神代の巫女を立派に務めます」
「へ?」
 蒼牙の拍子ぬけた言葉に、桜は穏やかな笑みで返した。
「頑張ります。…必ず、神代の巫女をやりとげてみせます。…だから、約束してほしいことがあるんです」
「?」
 蒼牙が首をかしげると、桜は左手の人差し指をぴんと伸ばした。そして、まじめな顔つきで口を切る。
「もう二度と、その術を使わないでください」
「…あ。うん」
 桜の気迫に押されて、とりあえず返事をする。すると、桜はむうっと頬を膨らませて、いきなり立ち上がる。そして座っていた方とは逆の蒼牙の枕もとに向かって、身を乗り出した。
「どうしてそんなに曖昧なんですかっいいですかっ指きりしますよっ」
 有無をいわさず小さな小指が蒼牙の右手の小指と絡む。やわらかい温もりが、指先を通って伝わった。
 蒼牙がぽかんとしている間に、桜はひとりでつながった小指をぶんぶんとふった。
「ゆーびきりげーんまんうそついたらはりせんぼんのーますっゆびきったっ」
 小指が離れ、桜はにこっと微笑む。いいですか、針千本ですからね、と言いながら。陽を背にしているので、表情はよく見えない。
 眩さに目を細くしながら、蒼牙は小さく笑った。そして右手を伸ばす。その手は桜の白い頬に届いた。ぺしぺしと叩いてからそのまま少し引っ張った。すると、桜の顔がたやすく近づく。桜は目を見開いて、小首をかしげた。
「先輩?」
「心配かけてごめんな。…だから、泣けよ」
 優しく、諭すような声音に一瞬桜の肩が強張った。
「泣いていいんだよ」
「な、…」
 蒼牙の言葉に、桜は笑顔でかえそうとした。
 だが、胸の奥から様々な感情がせりあがり、精一杯押し隠していた分、それが怒涛のようにあふれ出てきた。すると笑みを象っていた唇が震えて、桜は顔をくしゃくしゃにする。
「…っ…が、…まんしてたのに…っ」
 乾いていた瞳に、みるみる涙がたまり、行く筋も行く筋も桜の頬を涙が伝う。震える掌でシーツを握りしめて、桜は唇を噛んだ。
 蒼牙は優しく笑って、桜の髪をゆっくり撫でた。それがとてつもなく温かくて、優しくて、嬉しくて、桜は涙がとまらなくなってしまう。
「我慢すんな」
 桜は頬に添えてある蒼牙の右手を、痛いほど握りしめて、しゃくりあげた。
「せ、せんぱいが…ったおれたときほんとに、こわくて…っ」
「うん」
「あと、…っ護り石、たいせつにするって…いったのに…っごめ、なさ…っ」
「うん。わかってる」
 穏やかに瞳を細めて、蒼牙は笑った。そして、桜の手を握り返す。力をこめて強く握りしめると、桜の瞳からますます涙があふれ出る。
 その時、蒼牙の胸の奥に、熱が灯った。
 生きている。ちゃんと、ここに存在している。そして、この少女に再び逢えた。そう思うと、胸の奥から手のひらに熱が伝わる。
「先輩が…っい、いなくなったら、どうしよう…って…っ!」
「ここにいる。神代のおかげ」
 そう言うと、桜は涙に濡れた顔をあげて、ぶんぶんと頭を振った。涙で胸がつまって、もう声が出ないようだった。
 泣きじゃくる桜を見つめながら、蒼牙はもう一度笑った。そして、誓う。
(――絶対、護る)
 この少女の身を、――心を。絶対に二度と傷つけない。そのために、もっと強くなる。
 それは、自然と心に湧きあがってきた感情だった。決して違えない、と蒼牙は己の心に刻み込んだ。

◇ ◇

「君がため…惜しからざりし命さへ、長くもがなと思ひけるかな」
 廊下の壁に背中を預けていた新が、ぽつりと呟いた。隣でジュースを飲んでいた悠が首を傾ける。
「なんだそれ」
「国語でやったやつ。いまの蒼牙にぴったりかもなあって」
「どういう意味なんだ?」
 新を覗き込んで、興味津津といった風に悠が聞いた。可愛いなあと思いながら、新は悠の頭を撫でる。
「んー?ま、きにすんな。じゃ、あの二人になんか買ってこよーぜ。バナナがいいな」
「そんなバナナ!!…じゃなくてっ待てよ新!」
 ちゃっかりきっちりツッコミをいれてから、悠は新を追いかける。肩越しに病室を振り返って、小さく笑った。




『君のためなら、惜しくもないと思っていたこの命だけれども、
 こうして逢ってしまうと、これから先もずっと逢えるように長くあってほしいと思ってしまうものだよ。』



-第10話「君がため」終り-


 
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