神の杜

第 1 0 話 君 が た め


 1


 ――こっち、こっち

 楽しそうな声が、鈴の音がちりばめられるように耳朶に触れる。誰のものかは分からない。
 小さな子どものようだ。ふうわりとして、どこかくすぐったくなるような笑い声が響く。

 その声に誘われるように、歩きだす。
 そこは、ほの白い空間で、やわい温もりに包まれているような感覚になる。いるととても心地よい。


 ふいに、風が吹いた。春の風のように優しい、そして強い風。 

(…おねがい、…もどって…かえってきて…)

 ハッと後ろを振り返る。眩く輝く光がそこにあった。そこから聞こえる、悲痛な声音。
 誰の声かは思い出せない。

 けれど、自分の胸の一番奥に熱が走る。
 帰らなければ、と無意識に呟いた。


 そして、走りだす。


 光の中へ、その声の主のもとへ。


◇ ◇

「………ぅ……?」
 目を開けると、ぼんやりと霞がかった視界に、白い天井が映った。ぎくしゃくと首を動かす。右手にある大きな窓は開け放たれ、心地よい風が吹き込んでくる。その風を目を細めて受けて、周りを見渡した。白いカーテンが、周りをぐるりと仕切っている。

(ここ…どこ、だ…?)

 しばらくぼうっとしてから、とりあえず起きようと身を起こす。…が。
「い、ってえええええっ」
 起きようとしたとたんに体中に激痛が走る。あまりの痛みにしばし悶絶した。その痛みをやり過ごしながら、自分の身体を見て、蒼牙はぽかんとした。
 右足は包帯でぐるぐる巻きにされ固定され、左腕も包帯が巻かれている。それに、頭にも包帯が巻かれているし、胸も固定されていて……。
「ほうたい、人間…?」
 なぜ自分はこんなところで(おそらく悠の実家の病院)で包帯ぐるぐる巻き状態で寝ているのだ。
 自分の現状に茫然として、意味のわからない言葉をつぶやくと、閉められていた周りのカーテンが勢いよく開いた。
「お、起きたのか。死にかけたドあほちび」
「篠田…?」
 呆れ顔で腰に手をあてている悠は制服姿だ。しかも、夏服に変わっている。どれくらい自分は眠っていたのだろうと考える前に、べしんと顔を強くたたかれた。
「へぶっ」
「死にたくなきゃ寝てろ。説明すんの面倒くさいから簡単に言うわ。とりあえずお前体中バキボキ折れてるから。あと凍傷とか。プラス、肺炎も起こしてるからマジ最悪だな。運び込まれた時は死んでもおかしくない状態だったんだぞ」
「運び込まれた…って……」
 俺は片手で顔の半分を覆う。
 ぼんやりとした思考がだんだんとはっきりしていく。そのまま記憶をたぐりよせた。

(俺…神代を、おいかけて…)

 段々と記憶が呼び覚まされていく。そう。自分は川に飛び込んだのだ。夢中で川の流れを操って、なんとか少女の身体を探し出すことができた。そのまま滝底に落ちて、少女を起して、怒鳴って。それから――。そこから先の記憶がない。途中でぶつりと記憶が途切れている。
「ッ!!!神代は…っぶぐっ」
 無意識に起きようとした顔を、悠よりも一回り大きい掌が覆う。そのままベッドに沈まされ、蒼牙はぎっと枕元に立っている少年を見上げた。
「新っなにすんだよっ」
 新は一息ついて、悠と顔を見合わせる。そして、二人同時に口を切った。
「「いいから寝てろっ!!このすっとこどっこい!!!!」」
「………す…っ…」
 悠は息を整えて、びしり、と蒼牙を指差した。他の病人に迷惑なのではないだろうかと辺りを見回すと、蒼牙の寝ているベッド以外、全部空だ。それを良いことに悠と新はまくしたてる。
「東海、お前な、桜に担がれて助かったんだぞ!ちなみに桜は隣の病室で明日退院だ!」
「わー蒼牙ちゃん、かっこわっるーいっ」
「おまえはきもいんじゃ。黙っとけ」
「はいすんません」
 目の前で繰り広げられる夫婦漫才に頭がくらくらする。とりあえず、神代は無事ということだ。そして、自分が九死に一生を得たのは、
(神代に、担がれて…………って俺!!)
 想像して、蒼牙は愕然とした。ぽかんと口を開けたまま、みるみるうちに顔色を変えていく。
「え、何。東海どーしたの」
「悠…蒼牙はな、男としての矜持がたったいまぶっ壊れたところなんだ。黙っといてやれ」
 新はうんうんうなずいて、悠はきょとんと首を傾げる。
 自分より年下の、しかも女の子に担がれて助けられたという事実に少なからずというか結構な打撃をうけた蒼牙は、頭を抱えた。
 そんな彼を黙って見守っていた新が、ふいに手を伸ばして頬をつねる。
「なにひゅんだよ」
「んーちょーっと怒ってんだよー。なー悠?」
 悠は瞬きをした。そして、新の言葉に、肩をすくめる。
 それから顔を引き締めて、新とは反対側にまわり、これまた蒼牙の頬を引っ張った。
「…………いひゃい」
「あたりめーだ。つねってんだからよ」
 新がさらりと返す。いやそうじゃなくてと唯一自由がきく右腕で新を殴ろうとしたが、それに気づいた悠が思いっきり頬をつねる。
「いはいいはいっ!!」
「…あのな。あたしはお前が大っきらいだ」
 ぽつり、と悠が呟いた。見上げると、悠は苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「…ひゃい?」
「ちっちゃいころからずーっとだいきらいだ。理由はあげたらきりがないっ」
 自分に対して、何を言いたいのか意図がつかめなくて新に視線を送る。だが、新は何も言わない。
 悠はあーだのうーだのとひとしきり唸ってから、思いっきり息を吸った。
「だけどな、幼なじみとしては認めてるんだっ!馬鹿なことはするなっ!」
 怒鳴り終わってから、悠は蒼牙の頬を思いっきり引っ張って放す。新も同様にして放した。頬を右手でさすりながら、蒼牙は首をかしげた。
「馬鹿なことって…」
 自分はこの二人(特に新)にここまでこけにされるほど何かをしただろうか。
 蒼牙は眉をひそめていまだにすっきりしない頭で考えるが、答えは出ない。そんな蒼牙の様子に、新はため息をはいて自分の頬をかいた。
「うーん。ま、あとは桜に任せるからよ」
 ひらりと手を振って、新は病室の入り口を指し示す。そこに所在無げに立っている小柄な少女の姿に、蒼牙は目を見開いた。
「ほら、行くぜ、悠」
「はいよ。おい東海、桜に何かしたらお前の現在の身長ばらすからな」
「いやいや待て。なんで篠田知ってんの」
 悠はにやっと口端をつりあげた。
「ひ、み、つ」
 悠はそう言ってからげらげらと笑って、くるりと踵を返した。そして先にドアで桜と話していた新の肩を叩いて、二人仲良く病室を出ていく。
 薄い桃色のパジャマに、白いカーディガンを羽織った桜は、困ったような表情を浮かべて、蒼牙を見つめた。なんとなく居心地が悪くて、蒼牙は一度視線を泳がせてから、右手を伸ばす。
「こっち」
「…あ、は、はいっ」
 桜は、一瞬両手を握りしめてから、蒼牙のベッドの枕元に向かった。そして、用意されていた丸椅子にちょこんと腰かける。そのまま桜は俯いた。蒼牙はちょっと眉をひそめた。
 桜が、なんとなくだが、とてつもなく怒っているような雰囲気を醸し出していたのである。無表情だからなおさらだ。
 首を傾げる蒼牙と、俯く桜。二人の間を、初夏の風が駆け抜ける。そして、夫婦漫才組はちゃっかり廊下で立ち聞きを決め込んでいた。



 
戻る   |    |  次頁