神の杜
2
不意に、肩をいからせたままの蒼牙が、ぐらりと前に傾いだ。自然と桜の身体に寄りかかる体勢になる。
一瞬茫然としてから、桜は眉をひそめた。蒼牙の身体が、驚くほど熱かったからである。
「先輩?!」
荒く息をする彼の身体を見下ろして、桜は絶句した。腕と足が血まみれで、全身に裂傷が走っていたのだ。
(服がやぶれてないのに、どうして…)
桜はそこまで考えてから、はっと自分の身体を見下ろした。
あの異形に貫かれた左腕と右足の傷が、なくなっている。それに、あんなにあった裂傷も消えうせていた。
制服は泥や血にまみれているが、桜自身の傷は一切ない。
次々に疑問が生まれてくるが、今はそれどころではない。桜は唇を引き締めた。
蒼牙の制服の裾をまくり、桜は絶句する。二の腕にえぐられたような傷ができていた。右足のふくらはぎも同様だ。中の肉が露出して、血が滴り落ちている。
桜は制服のスカーフを二つに裂いて、傷に巻くが、どんどんと血は滲み、あまり意味がない。
桜は周りを見回した。背後には滝。目の前には険しい山々が広がっていた。
(ここ…どこ…?)
気づけば滝の上に居た。あそこがどこかもわからない。
だが、桜はハッとして目の前の雄々しい山を見上げた。
「白神…山…」
自分の感覚に自信はないが、昨夜訪れた時の気配そのままを纏って、そびえ立っている霊峰は、確かに白神山だ。
けれども、白神神社まで、どれほど途方もない距離だろう。
加えて、すっかり夜の帳はおちきっている中、山を歩くなんてこと、本当にできるのだろうか。
そんなことを考えている間にも、蒼牙の顔から血の気がどんどん引いていく。
焦燥感に捕らわれて、桜はぎゅっと蒼牙を抱きしめた。
(私…っなにもできないの…っ?!)
悔しくて情けない感情がどんどん湧き上がって、桜は顔をゆがめた。
そのとき、ふわりと甘い薫りが頬に触れた。背後で砂利を踏む音が耳朶に触れる。
『ちい姫』
涼やかな声音にひかれて背後をみると輪郭がぼやけた少女が立っていた。
藤色の着物を身にまとっている。幾重も重ねられた衣を動きやすいように腰まで上げて、紐で縛っていた。年は、十六歳くらいのように思えた。
桜は無意識に蒼牙の手をぎゅ、と握る。
「……あなた、は…?」
『さあ、こちらにおいでなさい。抜け道を教えてあげる』
桜の質問には答えず、にっこりと微笑んで少女は手招きをする。
信用してよいものなのだろうか。
少女は穏やかに微笑んで夜空を見上げた。
『もうすぐ雪が降ってくるわ…。そうしたらその子は助からないかもしれないわね』
そう言われて、桜は頬を強張らせた。
そして、自分の感覚に従うようにする。悪い気配ではない。
それから、戸惑うように倒れている蒼牙を見た。ぎゅ、と拳を握りしめ、深呼吸をする。
桜はぐったりしている蒼牙の肩に手をまわして、意を決して立ち上がらせた。
とにかく考えている暇はない。
蒼牙は半分意識が混濁しているようだが、どうにか立つことができた。それにいくらかホッとして、桜はそろそろと足を進めた。
(体格が同じくらいで、本当に良かった。新兄さまだったら、こうはいかないもの…)
『できるだけ息をひそめて頂戴。――無駄かもしれないけれど。なるべくなら気づかれたくはないの』
「……?」
息をきらせながら桜は首をかしげた。しかし今の彼女に深く考える余裕はない。
少女は歩きやすい道を選んでくれているものの、気を抜けば転んでしまいそうだった。
(白神さまのことかな……夜だし…眠ってるのかも。それは、邪魔しちゃだめだよね…)
桜はぼんやりと思った。果たして神が眠るのかどうか定かではないが、桜は神についての知識は皆無だから、それは仕方ないだろう。
だんだんと、周りの木々の輪郭がぼやけていくように思えた。
周りの景色が溶け合って、色彩を失っていく。それでも桜は懸命に鉛のような足を動かした。
どのくらいの時間が経ったのか、疲労や寒さで手足の感覚がなくなりかけてきた頃、不意に目の前に橋が現れる。
いくつもの灯篭に飾られた橋だ。その向こうには森、そして平屋造りの屋根が見えた。
(…ここ……本家の裏の……)
橋の前にくると、少女は振り向いて、どこか憂いをおびた瞳で桜を見つめた。
『…ちい姫…今日、私に会ったことは、ほかの誰にも言わないで?もちろん、このわだつみの愛し児にも』
完全に意識を失っている蒼牙の髪を撫でて、少女は悲しげに微笑んだ。
「え…?」
『……ちい姫、もっとも幼い巫女に選ばれた愛しい私たちの娘。けれどそれも何か意味があることを祈りましょう』
目の前で夜闇に溶けるように少女の姿が消えた。
桜は思わず足を踏み出すが、山道を歩いた疲労と蒼牙の体重がのしかかり、そのまま地面に倒れ伏してしまった。
視界が傾ぐ。どんどん身体が重くなっていくのを感じる。
ひゅるりと冷たい風が頬を撫でたのを感じたのを最後に、段々と意識が遠ざかっていった。