神の杜
1
薄れゆく意識の中、自分が濁流の中にのみこまれたことだけはわかった。だが、身体に力が入らない。もがくこともできなかった。
(息、が…っ…)
ふいに、誰かに手首を掴まれる。強く引っ張られて、腰に手をまわされた。それは誰かと確認する前に、息が苦しくなる。ごぽり、と大きな水泡が口からもれた。
次の瞬間、口を何かで塞がれる。
すると、呼吸が少し楽になったので、薄く眼を開けた。
目の前にあったのは、翡翠の瞳。
澱んだ流れの中でもなお煌き続ける、清らかな水の色があった。
身体がひきずりこまれるように落ちてゆくのを感じながら、桜は完全に意識を手放した。
ふと気付いたときにみえたのは、春の空のように柔らかい青の光だった。
その青の光が全身をつつみこみ、ふわりと浮き上がる。
こぽこぽと浮き上がる水泡。心地よい感覚にだんだんと眠気が起こってきた。
このまま眠ってしまおう――と思った瞬間、両頬に痛みが走る。
目をぱっちり開けると、渋い顔の蒼牙が覗き込んで、あろうことか桜の両頬を思いっきり引っ張っていた。
「……ひゃにひゃってんでひゅか……」
「起こそうと思って」
離された頬をさすりながら桜は起きて、辺りを見回した。
欝蒼と茂る木々が頭上を覆い隠し、背後はどうどうと流れ落ちる滝があり、せり出した岩が底をぐるりと囲んでいる。
よく頭をうたなかったなあとぼんやり思いながら、桜はハッとした様子で蒼牙を見た。
「……どうして先輩まで…!!」
「…そんなのはどうでもいい。正座しろ」
「………ふえ?」
「いいから、正座。はい手は膝の上」
有無を言わさない声音に、桜は素直に応じる。きちんと桜が正座をすると、蒼牙は目の前で自分も正座した。
間。
「この、大馬鹿野郎っ!!」
きいんっとそこら中に蒼牙の声が木霊する。桜はびくっと肩を震わせた。
「後先考えずにあの石を渡すな!どアホッ!」
頭から怒鳴られて、桜は反射的にむっとして返した。
「そ、そこまでいうことないじゃないですか!あのときは、本家の、…上に立つ者としての決断をしただけ…」
全部言いきる前に、突然桜の腕を蒼牙が掴んだ。桜は驚いて蒼牙を見つめる。
蒼牙の漆黒の瞳が、自分を映す。真っすぐに。嘘偽りなしに。そらしたいのに、そらせない。黒耀石のような瞳に、引き寄せられる。
「……捨て身になったって、あいつらは神代桜≠ノ対して恩も何も感じない。わかってんだろ。わざわざそんなやつらにあてつけるために、自分を犠牲にするんじゃない!」
「……それ、は…っ」
桜が顔をゆがめる。
違う。そんなつもりでしたんじゃない。頭の中で叫ぶ声が、どうしても言葉になって出てこない。
黙り込んだ桜を見つめながら、蒼牙は思いっきり息を吸い込んで、全力で怒鳴った。
「どうせ見返すなら、立派に神代の巫女を務めて見せろよ!誰かのせいにしないで、歴代のなかで一番の巫女になってみせろ!!!」
「……っでも私には何の力も……っ」
蒼牙は舌打ちをして、桜の両頬を両手で包んで、ぐいっと引き寄せた。桜は瞳を見開いて、言おうとしていた言葉を飲み込んだ。
「力なんて関係ないんだよ!!お前が、自分を巫女だと思えば、お前は巫女だよ。それでも誰かに認められたいなら、俺が認める。――お前は、たったひとりしかいない、神代の巫女だ!」
桜は、呆気にとられて蒼牙を見つめた。
(…な、んで…)
なぜだろう。今まで誰の言葉に突き動かされることなどなかった。
しかし、彼の声が一陣の風となり、胸の中を駆け抜ける。
なぜ、目の前の少年は、何の根拠もなしにそんなことを言いきれるのだろう。
そんなこと、できるはずもない。自分は禍だから。必要とされていない存在だから。
なのにどうして。
そのような感情がうずまいているのに、桜は一つも言葉にできなかった。