神の杜

第 9 話 禁 域


 1

 薄れゆく意識の中、自分が濁流の中にのみこまれたことだけはわかった。だが、身体に力が入らない。もがくこともできなかった。

(息、が…っ…)

 ふいに、誰かに手首を掴まれる。強く引っ張られて、腰に手をまわされた。それは誰かと確認する前に、息が苦しくなる。ごぽり、と大きな水泡が口からもれた。


 次の瞬間、口を何かで塞がれる。
 すると、呼吸が少し楽になったので、薄く眼を開けた。

 目の前にあったのは、翡翠の瞳。
 澱んだ流れの中でもなお煌き続ける、清らかな水の色があった。
 身体がひきずりこまれるように落ちてゆくのを感じながら、桜は完全に意識を手放した。

◇ ◇


 ふと気付いたときにみえたのは、春の空のように柔らかい青の光だった。
 その青の光が全身をつつみこみ、ふわりと浮き上がる。
 こぽこぽと浮き上がる水泡。心地よい感覚にだんだんと眠気が起こってきた。
 このまま眠ってしまおう――と思った瞬間、両頬に痛みが走る。

 目をぱっちり開けると、渋い顔の蒼牙が覗き込んで、あろうことか桜の両頬を思いっきり引っ張っていた。

「……ひゃにひゃってんでひゅか……」
「起こそうと思って」

 離された頬をさすりながら桜は起きて、辺りを見回した。
 欝蒼と茂る木々が頭上を覆い隠し、背後はどうどうと流れ落ちる滝があり、せり出した岩が底をぐるりと囲んでいる。
 よく頭をうたなかったなあとぼんやり思いながら、桜はハッとした様子で蒼牙を見た。

「……どうして先輩まで…!!」
「…そんなのはどうでもいい。正座しろ」
「………ふえ?」
「いいから、正座。はい手は膝の上」
 有無を言わさない声音に、桜は素直に応じる。きちんと桜が正座をすると、蒼牙は目の前で自分も正座した。

 間。

「この、大馬鹿野郎っ!!」

 きいんっとそこら中に蒼牙の声が木霊する。桜はびくっと肩を震わせた。

「後先考えずにあの石を渡すな!どアホッ!」
 頭から怒鳴られて、桜は反射的にむっとして返した。
「そ、そこまでいうことないじゃないですか!あのときは、本家の、…上に立つ者としての決断をしただけ…」

 全部言いきる前に、突然桜の腕を蒼牙が掴んだ。桜は驚いて蒼牙を見つめる。
 蒼牙の漆黒の瞳が、自分を映す。真っすぐに。嘘偽りなしに。そらしたいのに、そらせない。黒耀石のような瞳に、引き寄せられる。

「……捨て身になったって、あいつらは神代桜≠ノ対して恩も何も感じない。わかってんだろ。わざわざそんなやつらにあてつけるために、自分を犠牲にするんじゃない!」
「……それ、は…っ」

 桜が顔をゆがめる。
 違う。そんなつもりでしたんじゃない。頭の中で叫ぶ声が、どうしても言葉になって出てこない。
 黙り込んだ桜を見つめながら、蒼牙は思いっきり息を吸い込んで、全力で怒鳴った。

「どうせ見返すなら、立派に神代の巫女を務めて見せろよ!誰かのせいにしないで、歴代のなかで一番の巫女になってみせろ!!!」
「……っでも私には何の力も……っ」

 蒼牙は舌打ちをして、桜の両頬を両手で包んで、ぐいっと引き寄せた。桜は瞳を見開いて、言おうとしていた言葉を飲み込んだ。

「力なんて関係ないんだよ!!お前が、自分を巫女だと思えば、お前は巫女だよ。それでも誰かに認められたいなら、俺が認める。――お前は、たったひとりしかいない、神代の巫女だ!」

 桜は、呆気にとられて蒼牙を見つめた。

(…な、んで…)

 なぜだろう。今まで誰の言葉に突き動かされることなどなかった。
 しかし、彼の声が一陣の風となり、胸の中を駆け抜ける。

 なぜ、目の前の少年は、何の根拠もなしにそんなことを言いきれるのだろう。
 そんなこと、できるはずもない。自分は禍だから。必要とされていない存在だから。
 なのにどうして。

 そのような感情がうずまいているのに、桜は一つも言葉にできなかった。




 
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