神の杜

第 8 話 ち は や ぶ る 神


 4

 その時。邪気に満ち満ちた空間を切り裂くように、声が下りてきた。

「ひふみよいむなやことをなりけりや」

 ぎくり、と異形の身体が強張る。同時に桜の首を掴んでいた力も緩んだ。
「げほっごほっ」
 咳をくりかえし、荒く息継ぎをしながら、桜は周りを見回した。闇の空間は、ばらばらと瓦解していく。その先から現われてくる風景に桜は目を瞠った。そして、そこに立っている少年と少女の姿に、息をのむ。
「せんぱ…い、悠…?」
 無意識に立ち上がろうとした桜の身体を、どろりとしたものが包み込む。
「…きゃ…っ」
『逃しはしないぞ』
 にたり、と異形の口元がゆがむ。桜が何かを言おうとすると、その口さえも塞いだ。
「ん―ッ」

◇ ◇

 悠は一旦祝詞を唱えるのをやめて、舌打ちをした。目の前には大きな川が流れている。その向い岸にいる祟神を見て、片眼を眇める。
「…完全に化け物化してる」
『方士ども。手を出すな。ゆっくりとみていろ、この娘が息絶えるのをなっ』
 落雷のような咆哮がうねる。そして、祟神の腕のあたりがぼこりと膨らんで、先が牙のように尖った蔦が現れた。
 祟神はためらいもなくその刃を桜の左腕に向けた。
 肉を突き破る音が鈍く響く。刃は桜の二の腕を貫通し、引き抜かれた。ぱっと鮮血が散る。桜は激痛に顔をゆがめた。
 だが、それだけに終わらず、その刃は桜の右足のふくらはぎをも貫通し、白く細い足を鮮血に染める。

「―のやろッ!!」
 激昂する蒼牙を腕で制して、悠は大きく息を吸った。そして、片手に持っていた榊を両手に持ち、足を少し開いた。

「ひふみよいむなやことをなりけりや」

『う、ぐぉやめっ…』
「ふるべゆらゆらとふるべ」
 異形の形がどろりどろりと変化していく。だが、桜を攫む力だけは緩まない。
 腕はぎりぎりと締め付けられ、感覚が薄くなってゆく。
 刹那、鋭い刃が桜の喉もとめがけて伸びてきた。桜は必死に辺りを見回す。足元は、ごうごうと流れる川が広がり、その先には険しい岩を削る滝があるのが見えた。しかも、雨が降ったのか、川の流れや水量が増している。
(…っ…どうにかしなきゃ…っ)
 桜はこの状況を脱するべく、一所懸命にもがく。その桜の喉もとで、ぴたりと牙がとまった。
『のう、娘。この下には何があると思う?』
 囁くような声音。桜は段々もうろうとしていく意識の中でそれを聞いた。
『清らかな娘を好んで骨の髄まで食らう、魔物が住んでいるんだぞ。生きながらにして食らう、悪魔が。ああ、おそろしや』

「ッ神代!!」

 急に拘束が解かれ、悲鳴が上がる余裕もなく桜の身体が川に落下する。あっという間に桜は濁流にのみこまれ、見えなくなってしまった。
 祟神の高笑いが天をつく。
「篠田あと頼む!」
「あ?!ちょ―っ」
 ためらいもなく蒼牙は川に飛び込む。水しぶきが一瞬視界を覆い、それに気を取られている間に蒼牙の姿もかききえた。悠はあっけにとられて、地団太を踏みたくなりながらぎっと祟神を見上げた。


「もう遠慮はなしだ」
 誰ともなく囁いてから、柏手を一度。そして鈴がついた榊を横なぎに降った。
「ひとふたみよいつむゆななやはここのとをなりけりふるべふるべゆらゆらとふるべ!!」
 ぐにゃり、と祟神の身体が曲がる。背中の部分がぼこりと膨らんで、その中から鬼の姿をした異形が飛び出てきた。悠は息を吸って印をくむ。

「臨、兵、闘、者、皆、陳、烈、在、前!!」
 すべての印をくみ終わると、悠を中心に強い風が巻き起こる。襲いかかってきた鬼を砕き、祟神を包みこんだ。

 そして、竜巻が起こり、祟神の姿はかききえ、風がぴたりと止む。辺りは川がごうごうと流れる音に包みこまれた。

 悠はぜえぜえと肩で息をしながら、頬にできたかすり傷を袖で拭う。ふいに眩暈が起きて、足がよろめいた。そのまま傾ぎそうになった身体を、誰かが受け止める。
 ぼんやりと自分を受け止めている少年を見上げ、悠は震えた声で少年の名を呼んだ。

「あら、た…?」
「…悠…無事かっ…?」

 息を切らした新をみて、悠は顔をゆがめた。みるみるうちに瞳に涙がもりあがり、ぼろぼろと頬を伝う。それを拭いもせずに悠は新の胸元を両の拳で思いっきり叩いた。
「遅いんだよっ馬鹿!!」
「おい、悠…?何が…っ」
「馬鹿ッ阿呆ッ……!!桜が…っ東海が…」
 震える悠の肩を抱いて、新は霊力を使って蒼牙の気配と桜の気配の残滓を追った。そして、絶句する。川の向こうは断崖絶壁を流れる大きな滝がある。滝底は岩がごつごつとせり出している。

「落ちたのか…っ?!」
「どうすんだよっあの高さじゃ…っ」
 悠はしゃくりあげながら、両の拳を握りしめる。新は苦渋の表情を浮かべて、座り込んでいる悠の二の腕をつかみ上げた。そして、制服の袖で悠の涙を乱暴にぬぐう。

「…とにかく、町に戻るぞッ絶対大丈夫だかんなっ」
 悠は唇をかみしめて、頷いた。それに新も頷き、元来た道を戻るために、全速力で駆け出した。


-第8話「ちはやぶる神」終り-



 
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