神の杜
2
人に忘れ去られた山奥で、無数の闇が蠢いていた。よくみればそれはひとつの異形。全身をどろりとした液体で覆われ、姿かたちは判然としない。ただ、眼孔はぽっかりと開き、口と思われる穴だけが大きく開いていた。
その異形は、穿たれた眼を細めた。
――偽りの神を祀る一族の、根絶やしを。われらの積年の恨みを、いまここに。
ざわざわと木々が揺れ、その異形を得体の知れない気配が包んだ。刹那、異形の背中の部分が盛り上がり、こぶのようなものが浮き上がると、それは分離して、空の彼方へと飛んで行った。
――殺してやる。殺してやるぞ。――神代の巫女!!
四時間目の理科の実験の片づけをしていると、昼休みのチャイムが鳴った。机の上を雑巾でふいていた悠は後ろでフラスコを片付けている桜に声をかける。
「ちょっくら新達の様子見てくるわ。どうせ残ってんだろうし。桜は?」
「あ…私図書委員会あるから。でも、あとですぐいく」
悠に背中を向けて、棚にフラスコを置いている桜の表情は、明るい声とは裏腹に、強張っていた。だが、それに悠が気づくはずもない。
「そうか?じゃあ先行ってるな」
「うん」
振り返って桜はにこっと笑った。そんな二人の間に、ひょこっと遼子が顔を出す。
「それなら私が二人の教科書とか持っていっておくよ」
「さんきゅな遼子ー」
「ありがと遼子ちゃん」
「いえいえーじゃね」
三人分の教科書と筆箱を抱えて、遼子は颯爽と理科室を出ていった。その次に悠が小走りで保健室に向かう。最後に残った桜は、悠の足音が完全に途絶えるのを待って、小さく呟いた。
「…ごめんね」
一度俯いて、唇を噛んだ。そして理科室を出て、図書院のある高等部校舎の方へは向かわず、そのまま西校舎に繋がる渡り廊下へ向かった。
だが、西校舎には向かわずに、渡り廊下の途中で校舎裏に回り込む。 南校舎には特別室のすべてが集まっているのだ。だから、昼休みはしんと静まり返っている。
聞こえるのは、裏庭の森の先、煉瓦の壁の向こうにある海の潮騒だけだ。
桜は裏庭の森を校舎づたいにゆっくり歩く。
すると、不意に、肩を強く掴まれて、口をふさがれた。咄嗟のことで、桜は瞠目した。
身体を拘束されたことに気をとられているうちに、強い力で南校舎の壁に身体を叩きつけられる。そのままずるりと座り込んでしまった。
「…っ、…」
強かに打った肩を抑えながら、桜は顔をあげた。桜の周りを、数人の少年と少女が囲んでいる。高等部の制服を着た少年が三人と、中等部の制服を着た少女が二人だ。
桜は、震える足を叱咤して、立ちあがる。どれもこれも吐き気がするほど見覚えがある顔だった。名前はうろおぼえだが、すべて神代分家の子供たちだ。誰もがみな桜に憎悪と軽蔑の視線をなげかけている。
「………何用です」
きっぱりとした声音に、分家の子どもたちは一瞬ひるんだかにみえたが、すぐに意地の悪い笑みを浮かべた。
「その状況で、言えるお立場ですか?」
真横に居た大柄な男子生徒に両腕を掴まれる。力が強く、骨がきしむ音が聞こえた。
だが、桜は表情に出さず、涼しい顔つきで彼らを見返した。
「あなたは――ご自身が禍だということが、わからないのですか?」
「今回、神代の巫女にわたしが選ばれたことに対し、不満を抱いているのは承知しています。けれども、わたしに異を唱えるということは、そのまま断を決した当主を貶す行為に直結することは分かっておられますか?」
抑揚をおさえた声に、逆に神経が逆なでされて、少年の一人が桜の顎を乱暴に掴んだ。
「…っ…」
「そういうところがむかつくんだよ。妾の子のくせに、のうのうと一族の要につこうってか?」
「…」
桜は何も言い返さなかった。冷めた表情は、ぴくりとも動かない。
かっとなった少年が腕を振り上げたと同時に、辺りが急に暗くなった。そして、ざわめいていた木々も鳴るのをやめて時がとまったかのように動かなくなる。
「な、なんだ…?」
桜の腕を掴んでいた少年が拘束をとき、ほかの者と同様辺りを見回し始めた。桜も含め、皆同じものを感じていた。
(何か、禍々しいものが…くる…)
その予感が胸にともったとき、胸元が急に熱くなった。
桜は慌ててふところから銀のチェーンを引き出す。手の中では蒼い石が、光を放ちながら鈴を思わせる涼しげな音で鳴っていた。
にわかに金切り声があがった。少女の一人からだ。彼女はがたがたと震えながら裏庭の森を指差した。六人は森を仰ぎ見て、言葉をつまらせた。
桜は背筋に氷塊が滑り落ちたような気がした。震えを必死におさえながら、それを凝視した。
闇だ。木々の影に蠢く闇がある。果てのない暗い闇がざわざわとこちらに近づいてきていた。
「祟神…?!!!」
「どうしてこんなところに…!」
大柄な少年が、愕然と目を見開いて桜を見た。それにならうように少年たちは一様に桜を見つめる。
「おまえか…!!」
「………っ私じゃ……」
そこまで言ってから、桜は唇をかみしめた。言っても無駄だとわかっていたからである。それよりも、この状況を脱することが先決だった。
どうやら結界にとりこまれてしまったらしい。破ることは相応の霊力がなければ無理だ。
しかし、いまいる神代分家の面々は並の霊力しか持ち合わせていない。桜は例外なのだが、血の濃さが力に比例するのだ。彼らの血ではろくな退魔力を望めない。
桜は手の中にある護り石を見た。この石は、きっと桜一人を守るために発動する。けれどもそれでは全員を助けることにならない。この石の力を使えば、結界を壊すことができるだろう。
「悟さん」
先ほど自分の顎を掴んだ少年に歩み寄り、桜は石を差し出した。
「…なんだよ、これは」
不審げに桜の手の中を覗き込み、悟はぶっきらぼうに言った。
「護りの石です。東海家の力が備わっています。結界を破るには事足りるでしょう。ただ、この石をうけとったら、すぐに私から離れてください。…皆さん立てますか?」
悟は他の少年たちを促して、立たせた。後ろにだんだんと意識が引っ張られていく。桜は微笑んで、気力を振り絞って悟の手の中に石を放り投げた。
その瞬間、目の前は闇に覆い尽くされて、何もわからなくなった。