神の杜
6
「…やばいな」
「…やべえな」
暗闇の中で、新と蒼牙は同時に呟いた。目の前で木の葉が無残に千切れる。式が破られたのだ。蒼牙が立ち上がる。元来た道を早く戻った方がいいだろう。
冷静に対処策を練っていた蒼牙の横で、新はみるみる顔色を変えていった。
「……新」
「…う、う、うえ…っ」
蒼牙は、上を見上げた。急な傾斜がかかっているし、霧も出ているので上の方は霞んでいてよく見えない。だが。
「…っ」
馬だ。とてつもなく大きな黒い馬が山道を闊歩している。距離はあるが、このくらいの傾斜など、いともたやすく飛び越えるだろう。
新は蒼牙の襟を掴んで、手近な茂みに飛び込んだ。そして、息を長くはいて、早口でまくしたてる。
「いいか?あ、あれは、神代家当主に代々受け継がれる式神だ。地の果てまで追ってくるぞ。…捕まったら、終わりっ死ぬッ」
「落ちつけって。…だったら元来た道を戻るのは、危ないな」
「なんでだよっ」
「絶対につけてくるだろ。…あの道がばれるのはやばい」
「じゃあどーすんだよおっ」
蒼牙はパニック状態の新をなだめながら、素早く辺りを見渡した。ここは比較的道と言える山道だ。少し下りればすぐに川が流れている。
「………川に飛び込むぞ」
「…はいっ!!?」
「そうすれば俺の術で気配を消せる」
「ちょっとまってくださいっ雪解け水ですよっミネラルウォーターですよっ?!富士の清水といい勝負な感じの水ですよっ?!し、しかも流れはええしっ!!」
新は川をびしりと指さす。確かに川の流れは速い。そしておそろしく冷たいだろう。だがいまは手段云々を選んでいる場合ではない。蒼牙は新の両肩を掴んで、まじめな口調で言った。
「新、俺らは剣道でつちかってきた屈強な精神があんだろ。若さゆえの体力もある。………一週間寝込むぐらいですむ。たぶん」
「いまたぶんって言ったよねっねえ言ったよね?!」
「うっさい。置いてくぞっ」
「…〜〜っああもうっ!!わーったよっ」
半ば投げやりに立ち上がり、蒼牙も立ち上がる。呼吸を合わせて、茂みを飛び出し、そのまま駆けこんで冷たい川に飛び込んだ。
篠田悠は実家の病院の横にある街路樹の下をぶらぶらと散歩していた。その腕の中には白い子犬が一匹おさまっている。
「あーあ、今日暇だったなあ…桜と駄菓子屋のアイス食べたかったのに」
むうっとむくれる悠の頬を、子犬の小さな舌がぺろりと舐めた。悠は笑って子犬を抱き上げる。
「だいじょぶだいじょぶ。コン、心配してくれてありがとな―」
コンはくうんと鳴いて、もう一度悠の頬を舐めた。
「んじゃそろそろかえろっか」
悠はコンにそう言って、病院の裏手にある実家に戻ろうと踵を返した。が、その腕の中でコンが暴れだす。悠は驚いて、その拍子にコンを離してしまった。
「な、なんだっ?どうしたんだっ?」
大人しいコンがいつになくきゃんきゃんと喚いて、悠が進もうとしていた方向とは逆に走りだす。悠は瞬きをしてから、慌ててコンを追いかけた。
コンは悠の通学路を通って、商店街の近くまで来ると一端足を止めた。そして、商店街の近くにある公園に走り込む。
「あーっコンッ夜の公園はだめだって!おーいっ」
捕まえようとするが、コンはきゃんきゃん喚きながら公園の奥へ奥へと走っていく。
(…死体でもあるのか?いやいやそんな。こんな田舎町にそんなミステリーな)
今日一日推理小説を読んでいた悠はそんなことを思いながらコンを追いかける。
この公園は自然そのままに少し手を加えているだけなので、ちょっとした森のように思える。奥には川があって、夏には水浴びをする人でごった返す場所だ。
コンはその川の岸辺まで走ってきゃんきゃんと鳴いた。悠はぜいぜいと息をきらしながら、コンを抱き上げる。
「ったく。昼間あんなにおいかけっこしただろ………ってぎゃああああああっ!!」
悠は色気もへったくれもない悲鳴を上げた。少し離れた岸辺に、人が二人倒れている。下半身は水に浸かり、ぴくりとも動かない。
「し、し、した…っ…なわけないよな」
落ちつけ落ち着け。腐っても自分は医者の娘。そんなことを言い聞かせながら、悠は走って倒れている人達に近づいた。身体中に水草がまきついて、服は見る影もなく泥まみれ。一方はのっぽで、もう片方はチビで……。
「……って新?!東海?!何やってんだお前らっ!!」
その声に、蒼牙の方が反応し、ぴくりと身体が動いた。そしてのろのろと身体を起こす。その隣で、新は首だけを動かして悠を見上げた。
「あー…蒼牙ぁ、俺ぁ幸せだよ最期に愛する悠が天使となってお迎えに…」
「何言ってんだこのドアホっっ!!」
悠はいつものくせで思いっきり新の頭を蹴り飛ばした。新はその後ぴくりとも動かなくなった。それを傍観していた蒼牙は、疲れ果てた様子で口を切る。
「…篠田、溺れかけた人間にその仕打ちはないんじゃない?」
「…はっ!しまった!おい新っ死んだのか!?おーいっ」
蒼牙は小さく息をついた。まったくこの二人は幼いころから変わらない。駆け寄ってきたコンを抱き上げてわしゃわしゃと頭をなでながら、蒼牙は言った。
「気失ってるだけだろ」
「そっか。…てか何やってたんだ?…ていうかどこいってたんだ?」
蒼牙と新の見るも無残な状態に、悠は首をかしげた。蒼牙の腕の中で、コンも首を傾げる。
「……いやちょっと…釣りしてたら落ちたんだよ」
「はあっ?………まあいいや、とりあえずうちの病院来い。動けるか?」
蒼牙は新を見下ろして、自分の腕を伸ばしたり曲げたりしてから、長く息をついた。傷は大したことない。だが、霊力の大量消費で体がまったく言うことを聞いてくれない。
「…無理」
「………待ってろ。兄ちゃんに連絡してくるから。骨とかはおってないんだろ?」
「たぶん。擦り傷とか打ち身だけだと思…へっくしゅんっ」
「あーあ。コン、二人を頼むぞ」
肩をすくめて走り出す悠の背中に、コンが元気よく返事をする。そして、顔をあげて蒼牙の顔を覗き込んだ。蒼牙はコンの尻尾を触りながら、眼を細めた。
「……神代、大丈夫かな」
新と作った式は音声しか伝わってこないから、どういう状態だったかはわからない。だが、尋常ではない事態が起こったことは確かだ。桜の悲鳴が、耳について離れない。
蒼牙は、月を仰いで、複雑な表情を浮かべた。