神の杜
4
桜は長袴をつまんで、裾が汚れないように気をつけながら、目の前にある木製の橋を見た。屋根があり、両端に灯篭がかけられてあるので、一瞬屋敷の渡り廊下のようだと錯覚する。
(お屋敷の裏に…こんなものがあるなんて…)
屋敷の最奥の部屋に行ったことはあるが、大きな池があり、その向こうに欝蒼と茂る杜が広がって、その後方に白神山がそびえたっていたので、橋の存在には全然気づけなかった。足もとで蛇行して流れる川も、相当の高さがあるので音も少ししか聞こえてこない。
――それよりも。
桜は、ぐっと唇をかみしめる。先ほどから両手両足が震えて、顔のこわばりが取れない。心の奥で、何かが警鐘を鳴らしているような感覚だ。
橋を渡りきって見上げた白神山は雄々しく、それでいて恐ろしいほど静かだ。何かが、息をひそめている。そんな感覚さえ与える。
橋がかかっている場所は白神山の中腹より少し下のあたりだ。前を行く雪路は黙々と歩き続け、桜もそれを追いかける。五分くらいゆるい傾斜を登ると、古びた石段が現れた。両端に石灯籠が置かれ、雪路が持っていた扇子を一振りすると、そのすべてに淡い灯りが灯る。
「………」
「桜、この上が……疲れたかい?」
「いいえ…、大丈夫です」
「雪が残っているから、足もとに気をつけなさい」
「はい」
(――なん、だろう…この感覚)
どくりどくりと心臓が嫌な音を立て、針でさされているような頭痛がする。桜は石段を登りながら、はるか上を見上げた。だが、霧も起きているためか、よく見えない。
(………なんか、へん…)
神聖なもののはずなのに。西の地を守護し続けてきた偉大な神のおわす場所のはずなのに。何故か桜はどこかよどんだ空気に纏わりつかれているような気がした。
神がいる地というものに入ったことがないから、そう思うのかもしれない。もしかしたら禊が足りなくて、穢れを嫌った白神が、自分をいさめているのかもしれない。
(そうだ、そう思えばいい)
無理やり心に言い聞かせ、桜は石段を一段一段ゆっくりと登った。
「あー…バッドタイミングというかなんというかー…」
二人が橋を渡り切り、丁度出てきていた霧に隠れるように姿を消した後、漸く二人は息をついた。
「どうするよ。戻る?」
諦め気味の新をほっといて、ずっと俯いていた蒼牙は顔をあげて、立ちあがった。
「……おい?」
「ここまで来たんだから、行く」
「行くっててめえっ雪路さまに見つかったら終わりだぜっ!?ちょっと落ち着けよ」
「落ちついて……」
蒼牙は途中で言葉を切って、眉をひそめた。ざわざわと周りの木々がしなる。知らないうちに、白神山に足を踏み入れていたのだ。
蒼牙の瞳が翡翠に煌く。剣呑な様子で辺りを見回して、蒼牙は訝しげに新に視線を戻した。
「なんか、聞こえなかった」
「へ?いいや?」
蒼牙は首を傾げる。幽かだが、確かに何か、生き物が地面の上を滑る音が耳朶に触れたのだ。そう、あれは。
「蛇、の……」
蒼牙は眉をひそめて口に手をあてた。何かがひっかかる。なんだ。
ここは何かが足りない。それは、なんだ。
そのまま考えこんだ蒼牙は、蛇と口にしたとき、新の顔色が少し変わったのを、気づくことができないでいた。
しばらく考えてから、蒼牙は小さく息をつく。駄目だ。澱んだ空気が思考を霞ませる。
「…とりあえず、雪路さんと神代がどこいくか知りたい」
「ってたって近づいたらぜってえばれるぞ?」
「…式を使う」
そう言って、蒼牙は手近で咲いている椿の茂みから葉を一枚とった。
「水使わねえの?」
「ばーか。んなことしたら俺だってばれんだろーが。新、お前の霊力も混ぜるぞ」
「ああ、分かりにくくさせるわけね」
新はそう言って、ぽくっと手をうった。そして新の瞳が茶色から牡丹色に煌く。
蒼牙は口の中で真言を唱え、手の上にある葉に、霊力を注ぐ。それを新に渡す。新も蒼牙と同じように術をかけ、ふっと葉を飛ばした。その間に蒼牙はもうひとつの葉に呪をかける。
「……よし」
「なんか盗聴気分?」
「ばーか」
二人は手近の岩に腰を下ろし、葉から聞こえる声に耳を傾けた。