神の杜

第 7 話 轟 く 山


 3

 桜はふと台所の格子窓から空を見上げた。もうすっかり日は落ちている。それに、時折吹く風はとても冷たい。山中なので、町の方とは気温が段違いなのだ。北山でこの状態だとすると、白神山は雪が降るかもしれない。
 桜は蛇口をきちんとしめて、ハンカチで手を拭く。兄の雪矢は神社の方でまだ仕事が残っているのでしばらくは帰ってこないだろう。
「あ、そうだ御膳さげなくちゃ」
 先ほど雪路の部屋に夕餉を置いてきた。もう一時間ほどたっているから、もう下げに行っても大丈夫だろう。
 一番奥にある雪路の部屋の前に行くと、ふすまが少し開いて光が漏れていた。きちんと廊下にひざをつき、襖の戸に手をかける。
「兄さま、膳を下げに参りました」
「入りなさい」
「失礼いたします……兄さま?」
 戸をあけて、桜は目をまるくした。雪矢が白衣に、浅葱色の差袴を履いて、床を片付けていたからである。
「……あの」
「桜、正装に着替えなさい」
「え?」
 桜は瞬きをした。文台の前に座ってこちらを見ている雪路の瞳の奥が一瞬ゆらめく。―がそれに桜が気づくはずもない。
「…桜は、白神山に入ったことがないだろう」
「あ…は、はい」
 無意識に強く手を握る。どくんどくんと心臓が波打った。雪路は段々蒼白になっていく桜の顔を感情のない表情で見つめ、淡々と告げた。
「今宵白神様にご拝謁する。急いで禊をして、身支度を」
「でも、兄さまお身体は…」
「聞こえなかったのか?急いで支度をしなさい」
 厳しい声音に肩をびくりと強張らせて、桜は三つ指をついて礼をし、廊下を小走りに駆けて行く。
 母屋に用意されている自室に入り、襖を締め切って、それからがくりと膝が抜ける。震える両手を握りしめて、唇をかみしめる。
(…こわ、い…)
 いつからだろう。長兄が自分を見る時、氷を思わせるような視線を注がれていることに気付いたのは。勿論柔らかいもののときもある。けれどもふと気が付くと、ひやりとするような冷え切った瞳が、自分を見つめているのだ。桜は、それから無意識に、長兄のそれに、恐怖を抱くようになってしまった。
 深呼吸を何度も繰り返して、桜は両頬をぺちんと叩いた。そして、しっかりと二本足で畳を踏みしめて立ちあがる。

◇ ◇ ◇

 ほの白い月明かりが洞穴に注ぎ込む。伸びきった草に隠されたようにして、洞穴の出口はあった。結構せまい横穴で、この向こうに広大な鍾乳洞があるなどと入ってみなければわからないだろう。
 身体が大きい新は出るのに難儀したが、蒼牙はするりと横穴を潜ることが出来た。こういうときは小柄なことに感謝したい………と思おうとしたが、蒼牙は頭を振ってそれを否定した。
(せめて150センチはほしいだろ…)
 などと考えているうちに、横で新は身体の節々を伸ばしながら清々しい声音で口を切った。
「ぬあーっ久しぶりの外の空気っ地球よおはよう!!」
「…それをいうならこんばんはだよ」
「はいはい…で、ここはどこですかね」
 その言葉に、蒼牙は小さく息をついて辺りを見渡した。月明かりがあるので、懐中電灯は欝蒼と生い茂る森の中に入らなければ必要ない。
 二人が立っているのはごうごうと音を立てて流れる川の岸辺だった。横幅はおそらく七、八メートルはある大きな川である。そして向こう岸にあるのは三和山。そして。
 蒼牙は少し右に視線をずらした。比較的小さな山が目に入る。白神神社、そして神代本家のある北山だろう。その眼前が白神山。現在新と蒼牙がいるのは白神山の麓だ。ふと、蒼牙は目を瞠った。北山から木製で丈夫そうな橋がかかっている。つながっているのは、白神山だ。
「へえ…こんなとこに川なんてあったんだなあ」
 素直に感心している新に、蒼牙は胡乱な目つきで言葉を返した。
「気付かなかったの?」
「や、だってさ。三和山にすっぽり隠れてるし。三和山登ってこっち側まで来たことねえし」
 川があるなんて知らねえよ。とこともなげに返されて、蒼牙は肩をすくめた。
「たぶん、学院のそばの川まで繋がってると思う」
「あ、そーかそーかあの川はこっちが源流ってえことか」
 ふむふむと新は何度も頷く。蒼牙はそれを無視して、橋を見上げた。
「………新、隠れろ」
「へ?」
「早くしろハゲッ」
「んだと…っんぐがほっ」
 新のみぞおちに思いっきり拳を叩きこみ、彼の襟を引っ張って、岸辺から杜の入口まで走る。そして、伸び放題の草の中に飛び込んだ。
 何なんだよっとむせ返りながら小声でまくしたてる新の頭を思いっきり殴って、蒼牙は指で橋を指した。新はあまりの激痛に目尻に涙をためながら、上を見上げる。そして、茫然とした表情を浮かべた。
「桜…と…雪路…さま?」
 橋の上に人影が二つ。橋には灯篭がいくつもかけられていて、おぼろげながらも人影の輪郭は浮かび上がる。長身の人影の方は、神代家当主、雪路だ。その後ろに俯きながら歩いているのは、桜である。神代の巫女の装束を着て、顔はよく見えないが強張っているようだ。
「………」
 新と蒼牙は、顔を見合わせ、とりあえず二人が橋を渡りきるまで息をひそめることに専念した。



 
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