神の杜

第 7 話 轟 く 山


 2

 そこは果ての無い闇に閉ざされた場所だった。生温い風が頬を撫で、鉄錆の匂いが鼻に付く。
 とりあえず歩かなければという感情に支配され、足を動かした。そしてその時はじめて膝まで水が浸かっていることに気付いた。しかもただの水ではない。一歩進むごとに執拗に纏わりついてくる。
 ふいに背筋がひやりと寒くなる。無意識に背後を振り返った。
 新月の晩より暗い闇が蠢いている。獣の彷徨にも思える風が耳朶を触れた。
 ――何かが近付いてきているのだ。
 転ぶように駆け出すが、水に足をとられてうまく進めない。もがくように足を動かしても、とうとうつまずいて手をついてしまった。
 ぬるり、と手のひらに水が纏わりつく。むせ返るほどの鉄錆の匂いが鼻をついた。
(――血だ。)
 悪寒が身体中を駆け巡り、飛び上がるよう起き上り、走り出す。心臓が早鐘のように鳴り響く。

 ――呪え。忌みなる血筋に生まれた宿命を

 しわがれた声が追いかけてくる。男か女か、異形のものわかもしれない。

 ――憎め。咎を犯した剣の末裔(すえ)を

 息ができない。心臓が鷲掴みされたような感覚に陥る。それでも息苦しさに喘ぎながら足を進めた。
 捕まってはいけない。その感情だけが鉛のような身体を突き動かす。
 だが、追いかけてくる気配は確実に近づいてきている。邪気が膨れ上がり、四肢にからみついてくるような気がした。
 

(駄目だ、逃げられない――ッ)

◇ ◇ 

「兄さま…っ雪路兄さまっ」
 必死な声音に導かれるように意識が覚醒する。目を開けると、薄暗い天井が浮かび上がった。荒い呼吸を繰り返しながら視線をさまよわせると、今にも泣きそうな少女が自分をのぞきこんでいた。
「……桜…?」
 名前を呼ぶと桜は安堵した様子でのりだしていた身体を元に戻した。
 雪路は眉をひそめた。桜が母屋にいることが珍しかったのである。桜は頻繁に屋敷を出入りする分家の者と極力顔を合わせたがらない。だから滅多なことでない限り本家屋敷に訪れたがらないのだ。
「…どうしてここに?」
 そう問うと桜は枕元に置いてあるたらいに手拭いをひたしながら答えた。
「お兄ちゃんから、電話があったんです。雪路兄さまのお熱が下がらないって、それで、あの…お手伝いさんもお休みなので看病をしに参りました」
 雪路はまばたきをしてなんとも言えない表情を浮かべた。
「お前こそ身体が丈夫ではないじゃないか。移りでもしたら…」
 桜は目を軽く瞠る。そしてしぼった手拭いを綺麗にたたみ、雪路の額にそっと置いた。
「何を仰っているんですか。私など…兄さまこそ大事なお身体なのですからゆっくり養生なさってください」
 やけにきっぱりと言い切ってから、桜はあっと声をあげる。
「…ごめんなさい…偉そうなことを言って…」
 しゅんとなった桜の後ろの襖が開く。
「そんなことないよ桜。兄さんは無理をしすぎなんだ」
 白い長着に濃い紫の平袴を履いた雪矢は朗らかに笑いながら桜の横に座った。そして居住まいを正し雪路を見る。
「神域の結界に綻びはありません」
「…そうか。悪かったね」
息をついて雪路は身を起こした。そして鴉の濡羽色の瞳を穏やかに細めて、桜を見た。
「ありがとう」
桜は透き通った琥珀の瞳を真ん丸くしてから、はにかんだように顔を綻ばせた。

◇ ◇ ◇

 いやに軋む梯子を10メートルばかり降りると、やっと底に足が着いた。ひん
やりとした空気が肌を刺激する。
 蒼牙は手の埃を払って、ベルトに差していた懐中電灯をとった。

 先が尖った岩が所々に突出している。鍾乳洞だ。穴は、どこまでもつづいていた。人工的なものではない。先人が何らかの目的のため無理やり井戸の穴を掘り、道を作ったのだろう。
「ひょー結構広えなあ」
 新が後ろで間延びした声を出す。どことなく緊迫感を削ぐ声音だ。
「どっち行くよ」
 右も左も同じように洞穴が続いている。蒼牙は一応印のために梯子の周りに式を置いた。それから、意識を集中させて必ずあるはずの水の巡りを追う。
「こっち。途切れ途切れだけど水の気配がする」
 右を指差して、蒼牙はさっさと歩きだした。新も慌てて追いかける。

 幸いにもこのだだっぴろい洞穴は一本道で、横穴などはなかった。だが、微妙に傾斜がかかっているので、疲労はたまる。それでも黙々と二人は歩き続けた。歩いて歩いて、あまり時間の感覚がなくなってきた頃、新が音を上げた。
「なー…いま何時?」
「時計持ってないの?」
「持ってねーよ」
「………」
 小さく息をついて、蒼牙は腕に目をやった。丁度六時になったばかりだ。ここに入ったのが五時より少しすぎた頃だったから、かれこれ四十分以上は歩いていることになる。
「うっげー…出口ねえのかよお…腹減った〜」
「俺は減ってない」
「何食ったの?」
「ばあちゃん手製のうどん」
「うわー俺も食いてえっばっちゃんのうどん最高だよなあ…」
 そんなことを話しているうちに、ふいに蒼牙が足をとめた。懐中電灯を上にあげる。壁だ。一本道だった洞穴が右手に大きくそれているのだ。そして微かだが空気の流れが変わる。それから、ざあああっという音が耳朶に触れた。
「…この音…」
「…川、だな」
 二人は顔を見合わせて、ほっと息をついた。とりあえず出口についたようだ。仄白い明りが角から漏れている。月明かりだ。蒼牙はとりあえず懐中電灯を消し、新を促して足を進めた。



 
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