神の杜
1
日曜日。白神山の右手にそびえる三和山の麓にある日下本家に遊びに来た蒼牙はもうすぐ初夏を迎える季節にそぐわないいでたちで会った。
ダウンジャケットに、タートルネックそしてマフラー。真冬を思わせる蒼牙の格好に、新は首を傾げた。
「…蒼牙、着込んだってでっかくは見えねえぞ?」
「ぶったおすぞこのハゲ」
「あっいまハゲっつった。ハゲつったよこいつ。悪かったなあ若年性ハゲの家系でっ!親父なんか風前の灯だよ。じいちゃんなんかはまばゆいばかりの光を放ってんだよちくしょーっ」
そのまま暗い思考に沈み込んでいきそうな新の耳を引っ張り上げて、蒼牙は屋敷の裏手に回った。この屋敷の裏には、日下家がご神体として祀る三和山がそびえ立ち、その入口には注連縄で結界が貼られている。
山を登りたいのだろうかと新は当たりをつけたが、蒼牙は右手にそれて、ずんずんと進んでいく。草にほぼ隠れている蒼牙の身体を見失わないように新は慌てて追いかけた。
(……こっちって…)
新が答えを見つけ出す前に、その場所についた。家の真裏だ。端に家人の眼を避けたかっただけのようだ。そして伸びきった草の中に隠れるようにして、汲み取り式の井戸がある。周りをぐるりと注連縄にかこまれたその井戸はどこかひやりとしたものを感じさせる。
新は全身の血がどんどん冷えていくような気がした。ぎこちない動きで隣の蒼牙を見る。小柄な少年は腕まくりをして、いっそ清々しく言い切った。
「よし。行くか」
「ちょ、ちょっと待てええ!!」
新は絶叫し、次に喘ぐようにまくしたてた。
「そ、そこっいい一応昔昔のその昔、俺のご先祖がすっさまじい女の怨霊を退治した井戸で、厳重に封印するように言われてんですけどっ!!」
「わー説明ありがとう。よいしょ」
「待て待て待てーっ何お前注連縄乗り越えてんの?!」
べり。
「ぎいいやああああああっこいつ結界符ナチュラルに破りやが…っぐがふっ」
いちいちわめきたてる新があまりにも煩いので、蒼牙は華麗な足さばきで新の横腹を蹴り上げた。新は地面にのめり込み、あまりの激痛により、しばし悶絶した。
「うっさいよ。黙って見てろ」
俺お前の親友だよね?そうだよね?何この絶望感などとぶつぶつ言ってから、新は蒼牙の横に立った。大人しくなったのを確かめて、蒼牙は井戸に向き直る。
「…気づかないのも無理ないけど、これは井戸じゃない」
井戸の口を覆っていた木の蓋はあっけなく外され、冷たい風が吹きあがり、頬を撫でる。
「…え、風?」
疑念がわいた新は恐る恐る井戸の中を見る。ぽっかりと開いた穴の底から幽かな風邪が吹き上げてくる。そして随分と古びてはいるが、木製の梯子がかけられていた。水をくむための井戸には必要ないものである。つまり、底にあるのは水などではなく、どこかに通じる空洞があるということだ。
新はごくりと唾をのみこんで、蒼牙を見た。
「これ、どこに繋がってんだ?」
「白神山」
「はいっ?!」
「…に繋がってたら良いんだけど」
蒼牙は井戸を覗き込むのをやめて、新を見上げる。
「うちの親父が昔こぼしたことがあるんだ。この町の下にいくつかの鍾乳洞があって、それは全部白神山に繋がってるってな」
「…で、何で俺の井戸」
「ここの井戸に、水神がいないのが気になっててさ」
そう言いながら蒼牙は、石造りの井戸をカツカツと叩く。新は小さく息を吐いた。
「……で、試しにあけてみたらビンゴってわけか」
「そーゆこと。終わったら元通りにするさ」
いたずらっぽく笑って、蒼牙は身を乗り出して、井戸の梯子の強度を確かめ始めた。新は嘆息して、蒼牙のダウンジャケットを引っ張り上げる。ひょいっと蒼牙の身体が浮く。
「……なんだよ」
「…………なんでそんなに白神山にこだわるんだ?………いやちげえな、神代本家に、か?」
「…」
強い風が吹き、ごうごうと木々が揺れる。蒼牙は、鋭利な光を宿した茶色の瞳を淡々と見返しながら、ふいに北方を仰いだ。そこには、三和山よりも二回り以上大きい厳然とした、白神山がある。
「………なんとなく、って言ったら笑うよな」
「…はあ?」
「勘だよ。なんかおかしい気がするんだ。神代家も、白神山も、白祓祭も」
抑揚のない声が新に届く。新は片目を眇めた。あえて無表情を装っているが、こういう顔のときほど、蒼牙はとんでもないことを隠しているのだ。
(…問いただしても、言うような奴じゃねえもんな)
新は頭を掻いて、蒼牙の肩を強くたたいた。
「わーったよ。俺も行く。相棒だからな」
「…勝手にしろ」
「じゃ、ちょっと懐中電灯持ってくるからよ」
待ってろよ。置いていくなよと釘を刺し、新は藪をかき分けながら屋敷に入って行った。遠くなっていく背中を見ながら、蒼牙はくつりと喉の奥で笑った。
「相棒…ねえ」