神の杜

第 5 話 禍 つ 姫


 4

 ふいに桜が小さく笑った。蒼牙が首をかしげて桜を見ると、どこかせつなそうに笑う桜の視線とかちあった。
 それから桜は微笑みを深めて言葉を続ける。
「…いつも、ね…見る夢があるんですよ」
「へえ…どんな?」
 桜の表情からして、悪い夢ではなさそうだったので、先を促す。
「……知らない男の子と遊んでいる夢です。いつもいつも、笑いかけてくれて、手を伸ばしてくれてるのに、私は……」
 そこで言葉をとめて、桜は蒼牙をみた。蒼牙は、感情の読めない表情で、月を見上げていた。月を見上げている横顔は、端正で、見惚れてしまうほど。
 琥珀の瞳が、何かを訴えるように、揺れる。
「……先輩…先輩は…」
(…私と会ったことがありませんか?)
 そう言葉にするつもりが、唇から音となって零れない。
 違う、自分で止めたのだ。それを口にしたら、何かが壊れてしまう、という恐怖があった。蒼牙は、月を見上げたまま動かない。
「………なに?」
「…なんでもないです。」
 桜は首を振ってから、ふわっと微笑んだ。ただの夢なのだと、思えば良いのだから。そんな戯言など言わなくても良い。

 ふいに、蒼牙が桜を真っ直ぐ見つめてきた。漆黒の瞳が真っすぐ桜を射抜く。どき、と桜の胸が跳ね上がった。
 蒼牙は薄く唇を開いて―――
「桜、蒼牙」
 角から、小走りに雪矢が姿を現した。顔は、憔悴しきっている。蒼牙はぱっと桜から視線を外した。桜は知らずに染まっていた頬を抑えるようにしながら、次兄を見た。
「お、お兄ちゃん」
「終わったよ。」
 その言葉に、桜の緊張が完全に解けた。ほうっと息をついて、桜はおそるおそる雪矢に尋ねた。
「雪路兄さまは…?」
 公の場で、いきなりでしゃばった真似をしてしまった。怒っては居ないだろうか。
「ああ…えっと部屋に下がったよ」
 桜は唇を噛んで俯いた。桜のせいで、兄たちは当主、次期当主という至高の地位にいるのに、一族からなんやかんやと言われているのだ。負担はかけたくないから、いつも息を押し殺していようと決めているのに、うまくいかない。
「……もう、二度とやりません…ごめんなさい。」
 か細く漏れる声に、蒼牙は片目をすがめた。雪矢は困ったように微笑む。
「…とにかく頑張りなさい。おじいさまも、そうおっしゃっていたから」
「………はい」
 桜は力なく頷いて、首をめぐらした。
 屋敷から少し離れた対屋に、祖父は病の為に療養している。少し身体を動かすぶんには平気だそうだが無理をするとすぐに寝込んでしまう。舞の師匠でもある祖父に会うのは、週に二回の舞の稽古のときだけだ。それも最近できずにいる。
「そうだ。あのな、ふたりの神楽の練習なんだけど」
「?」
「桜も、蒼牙も小さな頃からそれぞれ舞ならってるよね」
「うんまあ…」
 蒼牙は、なぜか苦虫を噛み潰した顔をしながら、頷いた。このまえは自信満々に言ってしまったが、実のところ、神楽で舞うとされる剣舞は余り得意とするものではない。
「桜は兄さんから教えて貰えるよ」
「え…?兄さまが?」
「うん。それで蒼牙の指南役は東京の本家から呼び寄せるって。本格的な練習は、夏ごろになると思うよ」
 だれだろうか。蒼牙は首をかしげた。幼少の頃から教えてもらっていた父が最初に浮んだが、彼は本家当主。そうやすやすと来れるものではない。
 まあいいか。蒼牙はうなじのあたりをかきながら、伸びをして、桜に向き合った。
「………じゃあ、そろそろ失礼します。神代早く休めよ」
「あ、はい。ありがとうございます。さようなら」
「今日はありがとう。蒼牙」
 背を向けてひらひらと手を振りながら蒼牙はその場から立ち去っていった。
「よし。着替えて僕らも帰ろうか」
「うん」
 雪矢が促し、二人はその場を離れた。桜はふと母屋の方を見上げた。一瞬夜風にのって鉄錆の匂いが鼻を掠めたような気がしたからだ。だがすぐにそれは杞憂だと思い直し、長袴をさばいて兄の背中をおいかけた。

-第5話「禍つ姫」終り-



 
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