神の杜
3
この町に戻ってきて、もう三週間ほど経った。
蒼牙はあぐらをかいて庭先を見つめながら戻ってきた日のことを思い出す。
もう老い先短いと言っていた祖父は、飄々と縁側で発句をしてた。それを見たとき心配して損だったと軽い頭痛を覚えたものだ。
およそ、数年越しの再会となる。東京に行ってからは、こちらに戻ってくることはなかった。
距離の問題もあるが、それが目の前の祖父との約束だったのだ。白祓祭のことは、東京に戻るときに始めて知った。舞い手の男児に選ばれたこともそのとき告げられた。
そして、祖父は朗らかに微笑みながらこう言った。
『戻りたいのであれば、東京で修行に励め。さすればこちらに呼び戻してやれる。お前の力もお前の宿命(さだめ)がどうなるかも、すべてはお前しだいだ――蒼牙』
そのときの自分は、意味があまりつかめなかった。きょとんと祖父を見上げて、そして眩しい陽の光を遮るためにしきりに瞬きをしていた。
祖父は縁先に立っている蒼牙を見て、にかっと笑って言った。
『大きくなったなあ…』
祖父は蒼牙の姿に目を細め、幼い時と同じく頭をくしゃくしゃに撫でてた。それから、自分の横に座るよう促し、ふと険しい顔つきを浮かべておもむろに口を開いた。
『蒼牙よ。お前は、白神山をどう思う?』
その言葉に、蒼牙が一瞬たじろいだのを見とがめて、祖父は片眼を眇めた。けれどすぐに蒼牙は祖父を見上げた。曇りのない、迷いのない真っすぐな眼差し。
あまりにも頑固で、とてつもない不器用な孫を愛おしげに見つめて、祖父は穏やかに歌うように呟いた。
『……蒼牙…お前なら、変転を促すことができるかもしれんなあ』
「先輩…?」
鈴をころがしたような声が耳朶に触れる。気付けば、顔色のいくぶんよくなった桜がのぞきこんできていた。
「…あの…どうか……?」
「いや、考え事。なに?」
桜はぱちくりと瞬きをしてから、困ったような顔を浮かべた。別に用があるというわけではなかったのだ。さてどうしよう。
「えっと…」
そのとき、広間の方からざわめきが聞こえてきた。
ようやっと解散したようだ。二人が居る場所は、広間から庭先に出ても、ちょうど死角になっているので、見えない。
けれど、桜はぎゅ、と袂を掴み、唇を噛み締めている。姿は見えなくても、声は、夜風にのって丸聞こえなのだ。
「まったく、当主殿のお考えは分からぬ。若さゆえの過ちをおかしておられるのではなかろうか」
「前当主の和雪様のお身体も心配じゃ…ここずっと臥せっておられる。あのご病気も、姫のおこしたものだというが…ああ恐ろしや…」
「それよりもっとおぞましいのが、雪都(ゆきと)さまの死だ…。なんでも、姫の呼び込んだ妖が…」
「なんてことだ…そのような者が…」
桜は、そっと瞼を伏せてから、なんともいえない表情を浮かべている蒼牙に笑いかけた。
「……わかったでしょう……?」
先日言った、禍を呼ぶ≠フ意味が。暗に意味を含め、そう言う桜の唇は震えていた。瞳は、凍り付いている。
蒼牙は、何も言えなかった。
「……」
静寂を破るように、風が吹いた。薄紅色の乙女椿が八重の花びらを大きくしならせ、見事な花を咲かせた木蓮が、ばらばらと散っていく。簾子に入り込む白の花びらに視線をおいて、桜は目を細めた。
「………私……なにも、覚えてないんです…」
それは、花びらが舞う音にかき消されるほどのか細い声だった。それでも蒼牙は聴きとって桜を見つめる。
「…父が、亡くなった時のこと…その前後の記憶が…ぽっかりと…穴があいたみたいに。だから、あんな風に叔父様たちに言われても、否定することもできない」
両手を、そっと伸ばして、月にかざす。袖口からあらわれた腕は、細い。細くて、白くて、折れてしまいそうだった。薄く笑みを浮かべた横顔は、いまにも消えてしまいそうなほど儚いものだった。
いつも、この少女は。
(こうやって、我慢、してきたのか)
蒼牙は手を伸ばして、桜の頭をぽんと叩いた。桜は黒目がちの目をますます丸くして蒼牙を見る。
「おまえ、泣かないのな」
琥珀の瞳が大きく揺れる。けれど、それだけだ。
辛いときほど。心が痛いと思うときほど。深く深く心の奥に閉じ込めて。誰にも迷惑をかけないように、その小さな体に背負い込んで。苦しいはずなのに、泣きたいはずなのに、ずっと我慢して。
「……泣きませんよ」
そう言って、桜はけぶるような笑みを浮かべた。片目を眇めて、しばらく黙してから蒼牙は小さく息を吐く。
そして桜から視線を外し月を見上げた。あやすように桜の頭を叩きながら。