神の杜

第 5 話 禍 つ 姫


 2

「面を上げなさい」
 雪路の声が響き渡ると、ざ、と数十人の人間の頭が上がる気配がする。どれもみな、刺す様な視線を桜に浴びせていた。桜の身体が、一瞬強張る。
「…また、祭の年がやってきた。皆々一様に励むように。此度の神楽の舞い手を紹介する。まず、東海家より、東海蒼牙。皆失礼のないよう」
 ほう、と感嘆の息が続く。まだ幼いばかりの少年の女子とも見まごうばかりの端正な顔立ちに、神代家がざわめき始める。
「…そして、神代家より、神代桜。巫女に対しての振る舞いは従来とまったく同じである。しっかりと心に留め置くように」
 しん、と辺りが静まった。ぎゅう、と桜は手のひらが白くなるまで袴を掴んでいる。その真っ青な顔は、今にも壊れそうなほど頑なに震えを抑えていた。
「……お待ちください」
 前の方に座していた女性が、桜を刺すように睨みながら、声を上げた。
「…?」
 雪路が眉をひそめ、扇子を開く。女性は、雪路にたたみかけるように腰を少し浮かした。
「ご病弱な姫様に、その大役をお任せするのは、いかがなものかと」
 それに賛同するように周りから声があがる。
「……知っていると思うが、私は名をあえて呼ばないのは好ましくないと思っている。名が在るのだから、それを使いなさい」
 雪路が扇子を閉じ、それを口元にあてながら言うと、ぐ、と女性の周りの人間が口をつぐんだ。
「……桜様にはそのお役目、任しかねません。我が娘も分家とはいえ神代家。力も申し分ありません。いままで神代家の祭事に関わってこられなかった桜様には任が重過ぎます」
 ああそれか、と雪路は目を細めた。
「……神代の巫女は災厄潔斎を担う大切な役目。これについては、祭事に関わっていた否かは関係はない。私は、桜しかこの大役を勤められないだろうと踏んで選んだ」
「……ッ…けれど…」
 そのとき、桜が僅かに身じろぎをした。ざ、と視線が桜に集まる。
 桜は落ち着いた物腰で、笑みさえを浮かべていた。それは、誰もがハッと息を呑むような美しさだった。
 けれど、それはすぐに剣呑な眼差しへと変わる。桜が、雪路に目をむけると、雪路は息をついた。それを肯定とみなしたのか、桜はつ、と三つ指をついて、浅く頭を下げた。さら、と細い髪が畳に零れていく。
「皆様の心中、お察しします。けれども私は当主からこのお役目を頂きました。私とて神代家。力はなくとも、本家の血を受け継いでおります。いたらない身ではございますが、此度の舞い手を精一杯尽くさせていただきます。期待は裏切りません」
 有無を言わせない声音に、口々に何か言っていたものたちが、黙り込む。
 何人の言葉も受け付けない、息をのむほど強い、それでいて澄んだ瞳。十二歳を迎えたばかりの少女とは思えない声音が室内に響き渡ると、静寂がふつりと訪れた。
 雪路の横で黙っていた雪矢が、硬い表情をどうにか崩して、二人に声をかける。
「…桜、蒼牙、下がって良いよ」
「はい」
「失礼します」
 頭を下げて、二人つれだって庭に面した簾子へ出て行く。
 二人が少し部屋から遠ざかると、怒号のような声や、悲痛に訴える声が、聞こえてくる。
 蒼牙は眉をひそめた。幼い少女に対してのあからさまな態度は、嫌悪を通り越して、呆れに値する。
 神代家と東海家の違いは古きを重んじすぎているか否かのようだ。東海家では、こうまではいかない。そう悶々と考えていたら蒼牙は腹が立ってきた。

◇ ◇ ◇

(――黙って見定めるのだ。蒼牙よ。)

 ここに来る前、床から身を起こした祖父がそう言った。黙って事実を傍観し、何も問題を起こすなと。
 孫の性格をよく把握してるが故の指示だ。蒼牙はそれを聞いたとき首を傾げたが、その指示はあたっていた。もう少しでぶちぎれるところだった。
 それを振り切るように頭を振っていると、後ろで、がたん、という音が耳朶を叩いた。
「神代!?」
 簾子の上で倒れ伏した桜は胸を抑えて、荒い咳を繰り返していた。
 桜の顔色は、紙の様に白く、瞳も焦点が合っていない。抱えおこして、辺りを見回した。ここは外の風が直に当たる。このままここにいるのも駄目だろう。春とはいえ山林に囲まれたここはすごく冷える。
 蒼牙は手を伸ばして、桜の小さな手に触れた。
「……ゃっ……」
「じっとしろ」
 そういう蒼牙の瞳が、翡翠にかわっている。桜は朦朧とする意識の中でそれを確認した。
 すうう、と指先から何かの力が流れ込んでくる。清らかな、水。さらさらと桜の身体を廻り始める。澄み切った水の流れが、桜の呼吸を落ち着かせていった。
「……っ……けほ…っけほっ」
 桜は乾いた咳を少しの間繰り返してから、深呼吸をして、ようやくゆるゆると蒼牙と焦点を合わせた。
「……せんぱい…?」
「ん。大丈夫?」
「………はい」
「中に入ろう」
 立ち上がってそう促すと、座り込んだ桜は力なく首を振った。
「え…だけど」
「血の…」
「え?」
「…血の匂いが、して………」
 その言葉に、蒼牙は眉をひそめて辺りを見回す。花粉症はもっていないから、鼻はよくきく。けれど、血の匂いなどしない。
「……しないけど…」
「………いまは…薄くなりました……さっきは、…ひどくて…」
 多分、精神的なものだろう。
 蒼牙はそう結論付けて、ならばここにいるのが一番なのだろうとその場に腰を下ろす。見上げた空は、星が瞬いていた。



 
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