神の杜

第 5 話 禍 つ 姫


 1

 桜はぎゅう、と襖の前で両手を握り締めた。
 傍らに立つ次兄・雪矢は、硬い表情で、襖を見ている。
 桜は白衣に、深い紺色の長袴を胸高まで上げ、紐を前と後ろの腰を廻らせて右脇に結び垂らしてあるといった出で立ちだ。
 つい先ほど知ったのだが、この装束は神代家では、秘の神楽を舞う女児、すなわち神代の巫女にしか着ることの許されない装いで、それを着れば当主や次期当主の次に徳が高い者とみなされるらしい。
 それを聞いたとき、桜は全身から血の気が引いていくような心持がした。 逃げ出したい衝動にかられたが、それを許される立場ではなかった。
「…入るよ。いいね?」
 雪矢が確認をするように桜を覗き込む。
「………うん」
 桜は息をつめて、頷いた。そして、顔を上げる。いま一番すべきことは、神楽の巫女として、凛と振舞うことだ。
 ずっと物言いたそうに襖の前に控えていた女性が、深々と頭を下げ、やっと襖に手を伸ばした。
「雪矢さまと…巫女さまのお越しです」
 がら、と開かれると、ただっぴろい広い部屋が現れる。
 神代本家では、奥に行くにつれて、いくつもの似たつくりの部屋が襖ごとに仕切られている。
 いまはその襖がすべて外され、広い空間がつくられていた。
 桜は、眩暈を起こしそうになった。
 この部屋は端から端まで行くのに息があらがってしまうほど。その場所に、神代家の面々が列を作って座している。
 皆、畳に手をつき、頭を浅く傾けていたが、桜には、分かる。痛いほどの嫌悪が、憎悪が、身体につきささる。

 奥には、当主である雪路が円座に座っていた。若草色の着物を身に纏っている。
 同じような色を着た雪矢は足をすすめた。一族の面々は、二手に分かれ、中央に人が通れるくらいの間隔を作っている。
 雪矢はそこをどうどうと通っていった。桜はその後ろについた。ひそひそと囁く声が後を追いかける。
「…呪いの子のくせに、このような大役…真に口惜しいこと…」
「雪路さまの妹というのを鼻にかけ…」
 桜はつとめて無表情を装った。長い袖に隠された手は震えているが、それを悟られてはなるまい、と唇を強く噛んだ。
 今日は、一族への神楽の巫女の顔見せだった。桜に決定されたことは、神代家の中でも、一握りしか知らされていなかった。
 白祓祭もとい秘の神楽は神代家に伝わっている祭事のなかでは、半世紀に一度しかない、とあって、半ば神秘化されているものである。
 だから、神楽の舞い手である女児と男児は吉日を選び、代々神代の一族に顔見せをする。
 聞けば、この慣わしは東海家でも執り行われるはずなのだが、桜の身体を考慮して、此度は遠い地にある東海本家では行われないとの運びになった。

◇ ◇ ◇

(予想はしてたけど…これほどとはね)
 蒼牙は眉をひそめる。
 蒼牙は雪路に背を向ける形、つまり神代一族と向き合う形で座っていた。身に纏うのは絹の生地に銀糸で龍の刺繍が施された小袖に、藍色の袴である。
 方々にいる退魔師の家系の中でも神代家と東海家はもっとも古く、他の一族とは一線を画している。もっとも東海家はもともと神代家の傍流であるらしいがそれはもう太古の昔の話だ。
 数代前、東海本家の一族は突然東京に移ったという。神代家との縁を切ったわけではない。しかしその頃主従の関係が絶たれているので、なんらかの原因があるのだと思う。
 けれど、完全に東京に移ったわけではなく、東海分家が元の本家に籍を置いている。神代家との中も良好だから、仲違いというわけでもないだろう。事実、年に数回の催しごとは両家合同だ。

 また、東海家では、蒼牙より一つ年下の桜のことは有名だった。神代本家の血筋に生まれた、薄幸で鬼に魅入られし姫君。
 彼女が生まれたときには東海家も共にとても喜んだという。
 長らく本家に女児は生まれていなかった。
 神代家にとって、女児は宝のような存在だ。神代家の女児は必ず高い破邪退魔の力を持って、退魔術を取得できるためだからだ。
 けれど、桜は生来病弱で、七つになっても退魔術の修業をうけることかなわなかった。ただ美しいだけの姫君だった。
 古くから神代家では身体に疾患がある者や役に立たない者は、座敷牢に入れていた。運よければ里子に出す程度だ。
 今回もそうだと思われたが、桜は本家の血筋として育てられた。
 一族のものは不平を言う者が殆どだったが、当時の当主がそれを一蹴したのだという。
 だがそれでは姫君は肩身の狭い思いをしてしまう。だから東海家ではそんな桜を引き取るという話ももちあがったのだが、東海家の当主である蒼牙の父親は、苦い顔つきでそれを諌めたらしい。
 そのうち、幼い桜の周りで不幸が続いた。
 彼女の父親―当時は次期当主だった―の怪奇な死。そして、すぐあとに原因不明の病で当主が昏倒。そのどちらも、桜が関わっているという。
 前当主は当主の仕事を続けることがかなわず、慌しく本家長子の雪路が新当主に立った。
 退魔師の力のない、血という盾しかなかった幼い桜を、一族のものは皆なじり、蔑んだらしい。呪われた子、鬼に魅入られし姫君だと。
 その噂を本家で初めて聞いたとき、蒼牙は他人事とは言えど、眉をついしかめてしまった。そこまでいうか、普通、と。
 けれど、先日そのわけが分かった。桜は、邪気を寄せつけ、ひきずられてしまう性質の持ち主だ。何らかの原因があるのだろうが、鬼や妖の類が黙っているわけがない。
 けれど、病弱で生命力が希薄なために払う術を持つことが叶わない。だから、桜は他家には行けないし、退魔師の傍を離れることはできない。身守りの護符をもたなければ、たちまち邪気に食い尽くされる。
 一族の桜を快く思っていないものにすれば、迷惑きわまりない娘なのである。その娘が、当主直々に命を授かり、神代の巫女≠ニいう大役を頂いた。納得できないと思うのも、まあ無理はない。

 衣擦れの音がして、少し間隔を置いて隣に桜が座る。そして雪矢は雪路の隣に座した。そっと横に視線を滑らして、蒼牙は瞠目した。いつも不安そうな表情を浮かべる少女が、一糸の乱れもみせず、凛と座っている。後頭部より下で髪を結わいているため、大人びて見える。
 だが、琥珀の瞳はこれ以上ないというくらい揺れていた。蒼牙は無意識に声をかけようとしたが、それより早く雪路の声が朗々と響き渡った。



 
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