神の杜

第 3 話 四 つ 辻 の 怪


 1

 桜は暗い廊下に立っていた。前を見通しても、振り返っても、果てが見えない。

(……ここ…どこ…?)

 途方にくれてぼんやりしていると、ふいに、ずるずると裾を引きずるような音が耳朶に触れた。ぞくりと恐怖が背中を撫でる
 加えて、古いのか、その音と合わせるように床がぎしぎしと嫌な音をたててきしんでいる。それだけでも不安や恐怖は頂点に達しそうだった。
 正体不明の音は、前から聞こえてきた。距離はつかめないが、こちらに近づいてきているようだ。

 それが分かると、急に金縛りに襲われた。
 生ぬるい風が首筋を撫でる。

(逃げなきゃ)

 逃げなければ、あれに殺される。
 あれとはなんだと、頭の隅で誰かが問いかけるが、分からない。

(目を閉じろ。あれを見てはいけない。)

 直感でそう思ってはいるものの、視線は闇に包まれた前方に固定されたまま動かない。瞬きも、呼吸さえも忘れていた。そしてついに自分の鼓動だけしか聞こえなくなる。

 刹那、目の前に闇を纏った異形が現れた。

◇ ◇ ◇

 桜は短い悲鳴をあげて飛び起きた。
 身体を抱きしめるように腕をまわして荒い呼吸を繰り返しながら、辺りを見回す。
 見慣れた家具や淡い色合いの小物やアンティークがいつもと変わらずそこにあった。
 なんのことはない。ここは自分の部屋だ。
 震えが収まってから、ベッドの隣にある窓のカーテンを開ける。
 そこからは、北山に座す白神神社とその向こうにそびえる白神山が見えた。頂上付近は薄い紫色の雲がかかり、判然としない。
 息をついて、桜は着替えるべくクローゼットに向かった。

 一階の居間に行くと、次兄の雪矢が、高等部の制服をきっちりと着込んでせわしなく朝食の準備をしていた。
 物心がついたときから桜はこの次兄と二人暮らしだった。
 ずっと両親はいないのがあたりまえで、長兄の雪路は当主のために本家を離れられない。
 本来ならば二人も本家の屋敷で暮らすべきだが、まだ学生の自分たちにとっては山の上よりも、こちらのほうが便が良いのだ。
「おはようお兄ちゃん」
 雪矢は桜に気づくと、穏やかに微笑んで「おはよう」と返した。桜が席に着くと、心配そうに告げてくる。
「桜、今夜は俺、本家に行く日なんだけど…一緒にくるか?」
 雪矢がそう言うと、桜の心臓が嫌な音をたてた。それから、つとめてなんでもないような声色をつくった。
 次兄は桜が本家にいきたがらな理由を分かっている。しかしそれでも妹を一人にしては危ないだろうと心配してきたのだ。
「あ、……あの、明日は日直の日だから、こっちにいたいの。大丈夫だよ」
「そうか…まあ結界は張ってあるし…。護符はちゃんと持ってる?」
 桜はポケットから正方形の小さな紙を出した。銀に輝く細やかな文字がびっしりと紙を覆っている。
 先日、本家から帰るときに雪路から渡されたものだ。
「うん」
「破邪の力もあるし、封じの力もあるからね。俺なんかのよりも、だいぶ楽だろう?」
 雪矢はこともなげにそう言った。
「え?そんなことっお兄ちゃんの護符すごく効くよ?このまえは…私が油断したから…」
 先日、石段で異形に襲われたとき、桜がもともと持っていた護符は真っ二つに破れてしまった。
 兄の雪矢が作ったものだったのだが、それは仕方ない。兄は次期当主で、本来は当主とともに白神山を守るために霊力を使う存在なのだ。自然と退魔術の力はあまり強くないものになってしまうのである。
「ありがとう。とにかく、それは肌身離さず持っているように。ね?」
「はい」
 素直に頷いて、桜は丁寧にスカートのポケットにそれを戻した。


 雪矢とともに玄関をくぐると、ちょうど向かいの家の門から自転車を引いた小柄な少年が現れた。
 目はぼうっとしていて、髪はぼさぼさ。明らかに寝起きである。
 年相応にみえるその姿に、雪矢は小さく笑って声をかけた。
「蒼牙。おはよう」
「…?…あー、おはよ…」
 ぼんやりと雪矢と桜を見て、蒼牙はやっと彼らに気づいたかのように声を返した。桜も一応ぺこりとお辞儀をしたが、気づいたかは定かではない。
「随分と眠そうだね」
「朝苦手だから」
「自転車で行くのか?」
 しげしげと緑色の自転車を見て、雪矢は首をかしげた。
 ここから学院まで歩いて三十分ほどだ。
 近くもないが、わざわざ自転車に乗っていくほどでもない距離である。
 蒼牙は自転車を見て、面倒くさそうに口を開いた。
「新が昨日、篠田と電話しながら階段から落ちて捻挫したらしくて、迎え」
「それはまあ…なんというか…新らしいね」
 雪矢は苦笑した。桜は心配そうに眉をひそめてから、きっと学校に着いたら悠から笑い話として聞かされるんだろうなと予想した。
 ふいに蒼牙は桜を見て、小首をかしげた。
「身体どう?」
「…え?あ、はい大丈夫です。えと…あのありがとうございました」
「何が?ぼーっとしてどっかの池とかに落ちんなよ。神代トロ子ちゃん」
 涼しい顔で蒼牙はこともなげに言った。桜はきょとんとしてから、ぷうっと頬を膨らませる。
「落ちません!!」
「どうだか」
 鼻で笑って蒼牙は肩をすくめた。桜は怒りを覚えてきっと蒼牙を睨んだ。
「それにっトロ子ってなんですかっ!私は桜ですっ」
「トロい女の子だからトロ子なんじゃないかな?」
 横で静観していた雪矢がほけほけと笑いながらそう言った。
「お兄ちゃんっ」
「ドンくさい女の子でドン子、よりマシじゃん」
「なっ…」
 顔を真っ赤にして怒る妹の頭を撫でて、雪矢は蒼牙を見た。
「そろそろ行かないと。新の家からじゃ遠回りだろう?」
「あ、そっか。じゃあね」
 蒼牙は桜にだけ見下した笑いをしてから自転車に乗った。桜が激昂する前に、蒼牙の姿は見る間に遠くに行ってしまってすぐ見えなくなってしまう。
 雪矢は早いなあ、と呟きながら横で頬をふくらませている妹を見て小さく笑った。
「仲良いね」
「よくないもんっ」
 むきになって返して、桜はぷいっと横を向いた。

(やっぱり、良い人なんかじゃないっ)

 けれども、蒼牙と舌戦を繰り返しているうちに、昨夜見た夢の記憶や恐怖はすっかり桜から抜け落ちていた。



 
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