神の杜
2
門をくぐると、まず北校舎が見えてくる。
四つある校舎のうち、一番大きい北校舎だ。そちらに向かわずに右にそれると、第一体育館と第一武道館が点在する。
その第一武道館からこちらに向かってくる人影が二つ。そのうちの一人に眼を留めて、桜はひくっと口をひきつらせた。
なにも感じないような涼しい顔で、桜の方を見ている少年。
件の東海蒼牙である。
その脇には人懐っこい笑顔を浮かべる背の高い少年がいた。少年は桜に手を振っているつもりなのか、ひらひらと右手が揺れている。
なんのことはない。少年とは幼なじみだ。
手を振り返そうとして、桜はぎょっと目を開いた。
少年の傍らにいる東海蒼牙がまっすぐとこちらにずんずんと近づいてくるではないか。
落ち着いて考えてみればこれから帰るのだから、門をくぐるだけなのかもしれない。いやでも傍に居た少年は、途中で足を止めている。
桜が混乱に陥っている間に蒼牙はまっすぐに、桜のところにやってきた。
「ね、ちょっとあれ…ほら、…東海蒼牙じゃないっ?!」
「う、うそっこっちくる…っ!」
下校している女子生徒が黄色い声を上げた。桜の目の前に来た蒼牙は、足を止めて、口を開く。
「こんにちは」
蒼牙はそう言った。数秒経ってから自分に言われたのだと気付き、桜は慌てて頭を下げた。
「…こんにちは…」
「ちょっと話がしたいんだけど、いま平気?」
(…したくないです)
それが正直な気持ちだったがそのまま言うのも失礼だと思い、桜はしどろもどろに返した。
「………あの…友達を待ってるんですが…」
「ああ…新、代わりに待ってて。すぐ戻る」
蒼牙は後ろに立っていた少年に声をかけた。
少年―新(あらた)は軽い足取りで歩み寄ってくる。
「はいよー。桜、やっほ」
「こんにちは…」
「ちょっと来てくれる?」
そっけなく言って、桜の返答を待つ前に蒼牙は踵を返した。桜はその後ろを慌てて追いかける。
蒼牙が向かっているのは、いまは廃校となっている旧校舎の方だ。人気をさけたいのだろう。桜が声をかけても、完全に無視して足を進めていく。
人気が完全に絶たれると、背を向けていた蒼牙がくるりと振り向いた。
「……さてと。神代桜。ちょっと聞きたいことがあるんだよね」
涼しげな黒曜の瞳が自分を見ていた。桜は思わず身を固まらせて、両手をぎゅっと組んだ。
「…わたしにわかることであれば…」
蒼牙は漆黒の瞳に抜き身の刃を思わせる光を宿した。
「秘の神楽ってなに?」
単刀直入で切り込まれた言葉に、桜は瞬きをしてから、ゆっくり言葉を選ぶように話した。
「…ご神体に捧げるものです…、よね…?」
なんとも曖昧な返答に、蒼牙は胡乱気に桜を見た。
「へえ。あと…君さ、退魔師の修行してないの?」
ぎくりと桜は肩を揺らした。
先日、やはり蒼牙は桜に対して違和感を感じたに違いない。
有名な退魔師の家系のはずなのに異形一匹退治できず、しかも本家の末娘の割に屋敷で居心地悪そうにしていたからだろう。
「……そう、です」
桜は消え入るような声でそう応えた。すると蒼牙はあからさまに眉をひそめた。
「噂どおりか…。兄貴は当主なのに?」
半ば呆れの目で見られ、桜は俯いた。
悔しさと、哀しさで胸が締め付けられるようだった。
慣れているはずなのに、なぜだか感情が抑えられず、自然に口が開いてしまっていた。
「わたしは…修行を禁じられています。一族での祭事にも、これまで関わることはできませんでした。今回…初めてお声がかかったんです」
桜は、生来の身体の弱さや諸々の理由で、一族の中に入ることは到底出来なかった。
仕方のないことだ。古来より神代家では身体に疾患がある場合は座敷牢に入れて生涯すごさせていたという。
桜がちゃんと生活できるのは、当主の妹という身分があるからと言っても過言ではない。
本来ならば、里子に出されても仕方がないことなのに。
「……名ばかりってわけね」
「…っ…」
桜は俯いて、唇を噛むことで必死で耐えた。真っ白になるまで握っていた手のひらが震える。そして、気を奮い立たせて蒼牙をまっすぐに見つめた。
「そうです。…私は、禍を呼びます。だから修業もできないし、本家の者として認められてもいないんです。でも、あなたには関係な――」
言い切る前に、突然首筋にえぐるような痛みが走る。桜は喉を詰まらせた。
どんどんと酷くなる痛みに、目の前が暗くなったり明るくなったりする。そのうち、ひどい眩暈が襲ってきて、がくん、と膝が抜けた。
(なに、これ…)
息もつけない痛みに、意識が遠のきそうになる。
そして、滲む視界にみえたのは――、黒い、何か、だった。
「神代?」
ふいに澄んだ声が混濁していた意識におりてきた。
苦しみに耐えながらも顔を上げると、肩膝をついた蒼牙が、桜の肩を支えていた。
どうやら地面に倒れこむ寸前に、自身も屈んで支えたようだ。
蒼牙の癖のない黒髪が風に揺れた。未だたてない桜は蒼牙を見つめた。
ふわり、と風が二人の間をすり抜ける。
「………る……」
桜の唇から不思議な言霊が漏れるが、それは蒼牙に幽かにしか届かなかった。
「桜…っ…!」
背後から慌てた様子の悠が駆け寄ってくる。
蒼牙は、眉をひそめた。肩で息をしながら、悠は力の限り叫んだ。
「てめえっ桜になにしたっ」
「……誰」
蒼牙が眉をひそめて問うと、ぶちん、と悠のどこからか切れた音がした。
「篠田!篠田悠だ!覚えてないのかっ!」
「……ああ…巨女か。別に?話してただけだけど」
「話してただけでこんな顔色になるのかっ!?」
蒼牙は俯いている桜を見て、肩をすくめてみせた。
その態度に、悠はぐわっと叫ぶ。
「このどチビっさっさとあの馬鹿新のとこに行けー!!」
「うっさい」
悠が噛み付くように言うと、蒼牙は一度桜の顔を覗き込んで何言かを呟いてから立ち上がり、すたすたと去って行った。
「くっそー…桜大丈夫か?」
「…あ、う、うん…」
悠が覗き込むと、桜の顔色は驚くほどよくなっていた。当人も不審そうに瞬きをしている。
「いまは、なんともないの……」
桜は蒼牙の小さくなった後姿を追った。
先ほど囁かれた言霊には癒しの術がこめられていたようだ。驚くほど体が軽くなっている。
(悪い人じゃ…ないの、かな…?)
ますますわからない。と桜は首をひねった。
新は戻ってきた蒼牙に鞄を渡して、すまなそうに言った。
「蒼牙、わりい。悠とめられなくて」
「いいよ。まあもうちょっと聞きたかったこともあったけど」
そのまま歩きだす蒼牙の横に並んで、新はにわかに真面目な声音で言った。
「………桜に直接聞くの、今回限りってわけにはいかねえのか?」
「…本人のこと、本人に聞いちゃだめなわけ?」
頭二個分くらいは身長差のある新を見上げ、蒼牙は言い放った。新は首の後ろをかきながら言いにくそうに繋げる。
「…や、お前がそういう奴なのはわかる。分かるけども。ほら人には触られたくねえ部分、ってあるだろ?」
「…じゃあお前とか雪兄に教えてっつっても答えないだろ」
ますます新は困り果てた顔つきをした。
「……悪い」
途端にしょげはじめる親友のみぞおちに容赦なく肘鉄をうちこんで、蒼牙はこともなげに言った。
「ま、なんとなくそのうちわかる気もするんだけどね」
「げほっぐぉほっ…は?」
「勘。根拠はないけどさ」
頬をかいて、蒼牙は後ろを振り返った。校門はもうとっくにすぎて、学院を囲む煉瓦の塀と小さくなった校舎しか見えない。
「…禍を呼ぶ……か」
先ほどの少女の顔がふと脳裏をよぎる。透きとおった琥珀の瞳の奥は、すべてを諦めているもののそれだった。
蒼牙は未だむせている親友を睥睨してから、小さく息を漏らした。