神の杜

第 2 話 水 の 少 年


 1

 桜は、ゆるゆると瞼を上げる。
 ぼんやりとした視界に浮かび上がったのは白い天井だった。
 緩慢な仕草で辺りを見回す。保健室だ。
 まだ軽い頭痛が残っているが、大分よくなった。
 ひっそりと嘆息して、身体を起こす。窓の向こうに眼を向けると、もうすっかり夕方だった。
 桜が在籍するのは、町の末端に位置する私立千京学院である。
 殆どの校舎は創立時のままで、時計塔などもある。
 また、南校舎の裏には海が広がり、どこか修道院を思わせる創りだ。
 桜は窓枠からこぼれる夕日の光に目を細めてから室内に視線を戻した。


「あまり無理しないで、気分の悪い時はすぐにきなさいね」
 初老の女性が机上の書類を片付けながら、制服を整えている桜に声をかける。
「はい。ありがとうございます」
 明るい声で応えると、心配そうな顔をしていた保険医はほっとした表情を浮かべた。
 桜はそれからぺこりと頭を下げて保健室を出る。

 廊下はしん、と静まりかえっていた。私立ゆえの結構な広さがある校内は、閑散としている。
 放課後の時間に校内のどこかで生徒が固まっている、といえば文化部か図書院くらいだろう。その図書院も校舎とは離れた森の中に建っている。だから、人通りは少ない。
「桜」
 元気な声が桜の耳に届いた。歩みを止め、桜は顔を上げて微笑んだ。
 短い茶髪を揺らした少女が桜に近付く。手にクラス日誌を持っていた。
「悠、どうしたの?」
「いま様子見に行こうと思ってさ」
「あ…。ありがとう。ごめんね、心配かけて」
 肩を落とす桜の頭を撫でて、悠は困ったように笑った。
「ほんとに、だいじょうぶか?」
「大丈夫だよ。そんなに心配しないで?いつものことだし」
「……そっか、無理するなよ?」
 その言葉に、桜はふうわりと笑って答えた。
 悠は手を伸ばして頭を撫でた。彼女の大切な親友はいつもこうやって自分より先に他人に気を配るのだ。
 それで疲れないはずはないのに。
「…っわ…なあに?悠」
「いーやなんでも。……ああそうだ。桜、朝からずっと聞きたかったんだけどさ」
 ふ、と悠は真面目な顔つきで言葉を紡いだ。桜は小首を傾げる。
 悠は何度も口を開閉しながらやっと言葉を紡いだ。
「……東海、蒼牙が…神代本家に来たって…」
「え、うん…悠知ってるの?」
 意外なところから意外な名前が出て、桜は目を丸くした。悠は、ひく、と口元を歪ませていた。
「…新の親友なんだよ。昔遊んだことがあって…くそっ思い出すのもいらつくあの野郎。…何かされなかったか…?たとえば、むかつくこと言われたりちびなくせにちびなくせに見下されたり」
 桜は首を傾けた。青筋を立てて切羽詰ったように悠はたたみかけてくる。
「えと…何もされてないよ。うん」
 先日のことを思い出し、乾いた笑い方をした。悠ががしっと桜の肩を掴む。
「いいか、奴にはかかわるなよ。むかつくんだあいつ昔から!!人のことを巨女だとか男女だとか人間ブルドーザーだとか!!」
「悠、あの…肩…」
 桜の顔が段々と青ざめていくことに気づき、悠は慌てて肩から手を離した。
「ごめん。…ま、あんなやつほっといてとにかく帰ろう。門で待ってろ、すぐ行くから」
「うん。じゃあ鞄持っていっておくね?」
「さんきゅう」
 悠はそのまま廊下を全力疾走していった。
 元気だなあ、と桜は微笑みながら教室に向かうべくくるりと踵を返した。

 教室に入ると、まだ数人クラスメートが残っておしゃべりの花を咲かせていた。
 その中の一人が桜に気付き、人懐っこそうな笑顔を浮かべる。
「桜ちゃんっだいじょうぶ?」
「うん。大丈夫」
 そう返しながら、自分の席に行く。おしゃべりしているクラスメートのすぐそばの机だ。
 鞄に教科書を詰めていると、一番先に桜に気付いた少女が、話しかけてきた。
「ねえねえ桜ちゃん知ってる?二年に転校してきた東海蒼牙先輩!」
「へ、…え…っ?し、知らないけど…」
 桜は小さく反応する。東海、蒼牙。その名前に。
(同じ、学校…にいるんだ…)
「うちの編入試験満点で、結構かわいいらしいよ。事務員の人がいってた。
 もうパーフェクトよ!パーフェクトボーイよ!」
「ちょっとストップストップ…」
 その興奮っぷりに苦笑いを浮かべて、傍らの少女がなだめすかす。
「狙うだけ無駄だよ。二年の先輩親衛隊をつくっちゃったんだってー」
 ええ〜、とブーイングが飛ぶ。お年頃の乙女にとっては、そんなこと二の次、 のようだ。
 どうにも会話に苦手意識を感じて、桜は曖昧に笑う。鞄を閉じて、歩き出す。悠の席に置いてある鞄も忘れずに。

「それじゃ、ばいばい」
「あ、ごめんねひきとめてっばいばーいお大事にっ」

 桜はほう、と息をついて足早に昇降口に向かう。
 昇降口を出て、扇状に広がる階段をおりると、目の前には、大きなグラウンドがある。グラウンドでは、サッカー部や野球部が部活に精を出していた。
 正門に繋がる桜並木の道をとことこ歩きながら、桜はうーんと唸った。
「そういえば…お兄ちゃんからなにも聞いてなかった…」
 先日は混乱してしまい、気もそぞろになってしまった。
 聞こうとおもったのだが、生憎と雪矢は忙しい身の上だった。
 あとであとでと思ううちに、心のそこにあるわだかまりが隠れてしまったのだ。
 そうこうしているうちに正門についた。私立千京学院、と彫られた門柱によりかかり、ふう、と息をつく。
(悠、おそいなあ…)
 周りを取り囲むのはちらちら散る桜の木。
 古くからの人々の生活全てが山に抱かれたようにこの町は存在する。
 もちろん交通機関はあるし、時代に少々遅れはしていても辺鄙な場所ではない。
 だが、しっとりと静かに、昔ならではの雰囲気を守り続けるその町の風情に合う形で千京学院は在るのだ。


 どれくらいそうしていたのか、ふと視線を感じて、桜はその方向に視線を滑らしてから後悔した。



 
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