神の杜
2
ひらひらと蝶は桜を誘導するように飛んだ。桜は足がもつれそうになりながらも追いかけた。
けれども、神社の境内を抜けて、神代家の外界との橋渡しの役目ともなる大鳥居を抜けたとき、突如その姿は消えうせた。
「あ…っ」
最初は、薄暗い場所からいきなりひらけた場所に立ったので、太陽の光で隠されたのかとも思ったが、どうやら、本当に消えてしまったようだった。
桜は荒い息を整えながら、肩を落とした。
「………きえちゃった…」
桜は肩をおとしてよろよろと歩き、石段を降りた。
結構緩やかな階段ではあるが高さはかなりある。
両脇には坂もあるのだが、そこは夏祭のときにしか人は通らない。
石段の上からは、この神代家が代々守護してきた地が一望できた。
石段が終わると、ぽつぽつと住宅地が現れてくる。それが段々と広がっていって、中心の市街地になるともうぎっしりと建造物が立ち並んでいる。
山や林などひとつもない。右手に小さく見える海の傍に修道院のような建物があるが、そこは、桜や雪矢が通っている学校だ。
白神神社は、北山に位置する。山、とはいいきれない丘のような高さだが。
ちょうど中心からまっすぐに辿った場所にそこは存在する。余計な障害物がないため、自然とよく町が見えるのである。
そして、この北山を越えると、猛々しくそびえる白神山をはじめとした山々が姿を現す。
そこから先は、町の人間が立ち入るべき場所ではない。
桜は、ちょうど真ん中で足を止め、そのまま石段に腰かけた。
桜は伸びをして空を仰ぐ。視界に広がるのは、淡く色づいた桜の木と雲ひとつない青空だった。
舞い下りた花びらが頬を掠めたそのとき、強い風が吹いた。木々が大きくしなり、花びらが幾重も舞った。
桜は、強い桜吹雪に思わず目を細めた。
ふいに、さらさらと流れる水の音が聞こえた。桜は瞬きをしてから、無意識に振り返り、石段の上を見上げる。
桜吹雪が舞う中、大鳥居の下に小柄な少年が立っていた。
「…ッ…」
それは、心臓が止まりそうな衝撃だった。息が詰まる。目をそらせない。
大鳥居の下に立っていたのは、桜と同年か一つ上くらいの少年だ。
揺れるくせのない黒髪と少年らしい未完成さが残った端正な顔立ちに見ほれる前に、桜は別のことに驚いていた。
見つめた先にあったのは、翡翠の瞳。涼やかな水面に似た瞳。何度も夢に現れた、どこまでも澄んだ眼差しだった。
時折夢の少年に瓜二つだったのである。眉間の皺をなくし、真一文字に引き結んでいる唇に微笑みを浮かべれれば、の話だが。
その少年は驚愕している桜を見つめたまま唇を開いた。
「離れろ」
「え?」
開口一番の言葉に、桜は小さく首を傾けたが、ただならぬ悪寒にすぐさまその理由が分かった。
「!」
自分の横にある茂みの影に、黒いもやのようなものが浮き出ている。それはみるみる異形となった。
穏やかな空気が一変して妖気が流れはじめる。
「…っ!!」
桜は立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。動くことができないので、せめて身をひかせたが、異形はどんどんと膨れ上がり、桜をのみこもうとしているかのようだった。
初めに、少年の舌打ちが耳朶につきささった。次に、水音が響きわたる。視界の端で、少年がミネラルウォーターのペットボトルの中身を自分の手の上に流れさせていた。
桜が目を見張っているうちに、それはみるみるうちに形状をなし、刀となり、少年の手に収まった。
また強い風が吹く。風が吹いたとたん、少年が一瞬で視界から消えた。
桜が驚いている間もなく、気付くと桜の前に少年が立っていた。
それが合図かのように異形が咆哮する。少年は素早く刀を正眼に構え、振り上げた。
カッと蒼い光が走る。
光が収まると、異形の輪郭はぼやけ、そしてついには霧散した。
それさえも脇にのけて、桜はジッと少年を見ていた。桜吹雪はやむこともなく、ちらちらと舞う。少年の手の中にある水の刀は陽の光に透けて、どこまでも透きとおった水面を思わせた。
(…きれい……)
ふいに、少年が振り向いた。ぼんやりとしている桜を剣呑に見下ろした。
「どんくさいな。離れろつったろ」
刺々しい言葉に、桜は数秒呆気にとられてから、
「…へ?」と返した。
「あの程度で腰抜かすなよ」
桜は頬を染めて、きゅっと眉をひきしめた。
肩を震わせながら、桜はほとんど叫ぶように言った。……腰を抜かしたままなので少々間抜けかもしれないが。
「助けていただいたことにはお礼を言いますが、初対面の人にどんくさいと言われる筋合いはありませんっ」
言い返されるとは思っていなかったらしく、少年は挑発するように笑った。
「どんくさいって言って何が悪いわけ。じゃあちびのろま」
「なっ…あなただって、小さいじゃないですか!同じです!私がちびならあなただってちびです!!」
顔が熱くなっていき、足に感覚が戻ったことが分かると、桜は危なっかしい仕草で立ち上がり、少年と対峙した。
実際同じ段にいても、桜と少年の視線の位置は変わらない。体つきも男の割には華奢なところも手伝って、桜とよく似ていた。
桜の啖呵に、少年の眉間の皺が一つ増え、ぎろと睨まれる。
「…なんだよ。やんの?」
桜はびくっと肩を震わせてから、気力で自分を奮い立たせて、精一杯睨み返す。
そのとき、少年の瞳は、翡翠ではなく、漆黒に変わっていた。
「……まったく、初対面から喧嘩とは、やってくれるねえ」
「…それにしても、珍しいな。桜が言い返すなんて。まあ蒼牙は仕方ないのかな」
雪路と雪矢は、顔を真っ赤にして俯いた桜と、その桜と言い合いをしていた少年−蒼牙を見つめた。蒼牙は雪矢に顔を向ける。
「それどういう意味。雪(せつ)兄」
雪路がふうんと扇子を口元にあてて笑った。雪矢は、居心地悪そうにしている桜を見て、穏やかに笑む。
「まあとりあえず、お互いに自己紹介しようか。初対面だろう?」
雪路がにっこりと笑って桜を見る。こくん、と頷く。
蒼牙は面倒くさそうに桜の方を見た。むうっと桜が少し頬を膨らませるが、意に介したようすはない。
「東海蒼牙(あまみ そうが)。一応本家長子。春から中二で、退魔師…っつっても修行中」
「東海本家では一目置かれる存在なんだろう?評判をよく耳にするよ」
「いえ、俺はまだまだです」
人好きのする笑みを浮かべて、蒼牙は言った。
「ああそうだ。昔こっちに住んでいた時期があるんだよね?」
「あ、はい」
桜は瞬きをして、蒼牙を見つめる。いろいろ質問したいことが胸に生まれてくるが、言葉を紡ぐことをいまは許されていない。
蒼牙は一息置いてから桜を剣呑に見つめた。
「おまえは?」
蒼牙は眉根をよせたまま、ぽつりと言った。なんとなく、背負う空気がとげとげしいような。
「え?」
「自己紹介。…っとにトロいな」
「……っ。神代桜と申します。春から中学一年生で、………す。よろしくおねがいします」
続ける言葉がなくて、桜は無理やり終わらせた。不満そうに蒼牙は桜をじっとみていたが、ややあって少年特有の澄んだ声が部屋に響く。
「……よろしく」
そう言ってから、蒼牙は雪路と雪矢の方に向き直った。桜は息をつく。とても緊張してしまったのだ。雪路がようよう口を開いた。
「さて、本題に移させてもらおう。
この町では、神代家本殿の裏、白神山をご神体として祀っているのは知っているね?桜?」
桜はこくんと頷いた。神代家は、町を一望できるなだらかな北山に神社を建てている。
その裏に本家屋敷、そしてその奥にそびえる白神山。
町からはこの北山の本家屋敷を介してしか白神山に入れない造りになっているのだ。
「蒼牙くん。神楽については本家で聞かされてきたかな?」
「はい。小さい頃から剣舞と一緒に教えられてきてます」
桜はちらりと庭先に眼を向けた。この部屋は屋敷の最奥になる部屋である。
庭のその向こうに、厳然とそびえる山がある。鳥の鳴き声もしない。ぞっとするほど静かな杜だ。
そのもののご神体として祭られており、徒人は入れない。
雪矢が次に口を開いた。
「五十年に一度、町をあげて白神山への感謝のために大規模な祭りをする。
これが白祓祭。この祭りについては、日下家に一切を任せてあるんだ。
肝心のご神体を祀る祭事を行うのは、神代家と東海家だよ」
雪路は傍においてあった古い巻き物を手に取った。
「神代家の女児、東海家の男児が、共に神楽を神前で奉納することになっているんだ。
祭が終わったら、巫女はしきたり通り山の社で一夜を過ごしてもらう。
それで終り。祭りをやるのは大晦日だ」
そこまで言い終えると雪路はするすると紙の紐をほどく。用意された文鎮で炭をすき、丁寧に名を書き始めた。
桜はぼんやりと雪路が自分の名前を書くのを見つめた。
ふと、少し離れたところにいる少年を見る。
(―― 他人のそら似)
夢の中の少年はいつも優しい笑顔を浮かべていた。
けれど、そこにいるのは、ほんとうにそっくりの顔立ちをした、不機嫌そうな少年。
見たこともない。逢ったこともないはずなのに――。
ふと吐き気がむねをついた。
「気分でも悪い?」
雪矢が少し青くなった桜の顔を覗き込んだ。桜は瞬きを繰り返す。
「どうしたんだい?」
胸元に手を置いて、眉をひそめている桜に、雪路は労わるように声をかけた。
それに力なく頭を振って、桜は微笑んだ。
「いえ……」
「顔色が悪いね…」
雪路が手を叩くと、襖が開き、先ほどの使用人の女性が現れた。
雪路が開いた扇子で桜を指すと、桜の肩を支えながら、部屋を出て行く。
「………東海家でも神代家の姫君は有名ですよ」
「そうだろう。一族一の美姫だよ。身体が弱いのが心配だがね」
はぐらかされた、と蒼牙は感じたが、いきをついておもむろに立ち上がる。
「俺、今日ここに着いたばっかで、荷物整理できてないんです。帰ります」 くるりときびすを返し、蒼牙は出ていった。
外で控えていた使用人の女性が慌てておいかけていく。
雪矢もそれを追いかけていく。蒼牙とは古なじみだ。積もる話もあるのだろう。雪路は茶をすすった。
そして、ぽつりと。
「おもしろい子だねぇ…東海蒼牙。」
蒼牙は雪矢と二言三言言葉を交わしてから屋敷の門を出て、ふと振り向いた。
日を背にそびえる屋敷は途方もない広さだ。
自分が東京で住んでいた屋敷と頭の中で比較しようとして、馬鹿馬鹿しいと頭を振った。考えた方が負けだ。
蒼牙は眼を細め晴れ渡った青空を見上げる。
そして苦笑を漏らし、春の木漏れ日の中に足を進めた。