神の杜

第 1 話 春 に 咲 く


 1

 真っ白な空間に、幼い少女と少年がいた。
 二人を囲むようにちらちらと飛んでいるのは、水の残滓を振り撒く蝶だ。
 透明な蝶は、雫を舞わせながらゆらりゆらりと飛んでいる。
「またあえるよ」
 少年はそう言うが、少女から答えはない。少年は、翡翠の瞳を細めた。
「だから泣くな。………桜」
 そう呼びかけて、少年は優しく笑った。
 その顔貌は逆光にさえぎられ判然としない。
 少女は眩しそうに少年を見つめて、微かに唇を動した。だがすぐに口をつぐんでしまう。
 虚空のような瞳が、少年を捉えていた。
 しばらくすると、少年は名残惜しそうに立ち去った。
 少女は少年の背中が見えなくなっても、その場に立ち尽くしていた。
 そのうち、つう、と一筋の透明な雫が少女の白い頬を流れ落ちる。
 耐え切れず、思わず手を伸ばせば、そこはもう夢から覚めた現実。そう、いつものように。

◇ ◇ ◇


 少女は、畳を見つめるようにして、ずっと俯いていた。
 白に近い桃色の布地に、淡い赤の花が咲き乱れている振袖を纏った小柄な身体。肩より少し長い黒い髪は、庭先から吹き込んでくる柔らかな風で、さらさらとこぼれるように揺れていた。
 雪のように白い顔が破顔することはなく、その琥珀の瞳は何かを耐えているかのように揺らいでいる。

 少女は古い一族の生まれである。姓を神代。名を桜という。
 桜は今日、本家の当主に呼ばれた。桜の二人の兄はそれぞれ当主、次期当主なのだが、桜は本家に赴くことがあまり多くはなかった。
 本家の血筋にも関わらず、桜は一族で執り行われる行事や一切の事柄に、干渉することができないからだ。
 十二歳になった今日まで、一度も。
 だから、桜は一族に対してあまり広い知識が無い。神代家は、この地において、絶大な権力を持っているその理由を。
 そして、神代本家の屋敷の裏にある広大なご神体、『白神山』がなんのために在るのかも。
 桜は、その神域に一度も行ったことは無い。恐ろしく静かな杜なので、行きたいと思ったことさえ、ないけれど。

 ふと、桜に声が届いた。

「桜を、白祓祭(しろばらえのまつり)で執り行う神楽の舞い手に選んだ」
「…神楽…?」
 桜と兄の雪矢は顔を見合わせた。
 場所は広い和室の一角。定期的に替えられている真新しい畳、壁には名のある画家によって手がけられた掛け軸が、おしみなくかけられている。
 桜は所在なげに兄の少し後ろに座っていた。この屋敷に置いては、たとえ兄であっても、身分が違うのだ。
 二人の前に座している青年は、ほがらかに頷いた。
「そう。桜がね。まあこれは桜が生まれたときから持ち上がっていたことなのだけれど」
 桜は、目の前の青年から視線を雪矢に向けた。
 雪矢は、瞳を揺らしている妹を見て、少し困ったような顔を青年に顔を向けた。
「当主」
「おや。雪矢(せつや)?兄である僕の名前を忘れたのかい?」
 開いていた扇子をぱちんと閉じて、青年はそう問いかけた。
 雪矢は、きょとんと眼を丸くしてから、小さく息をついた。
「…雪路(ゆきじ)兄さん。桜は…とてもそんな大役には…」
「別に支障はないと思うが。まがりなりにも桜は当主の妹なのだから」
 長兄はにっこりと笑みを深めた。桜はそっと瞼を伏せる。きゅ、と胸の合わせを掴んだ。
 不安そうな妹の様子に、雪矢は戸惑うように言葉を紡いだ。
「だけど…」
「当主の命令が聞けないのかい?雪矢。桜も同じだ。神代家の人間として、どうすればいいか分からんでもないだろう」
 神代家の人間。ぴく、と肩を震わせてから、桜は恐る恐るといったふうに、雪路を見た。
 先ほどから、会話についていけていない。一族の行事には正月ぐらいしか出ることがなく、ずっと蚊帳の外だった自分だ。
 けれど、当主の兄に異を唱えることが決して許されないことだけは分かる。
 桜は視線を上げて長兄を見つめた。
「…あの…その、…神楽とは…?」
 途切れ途切れの言葉から意味を汲み取り、雪路は閉じた扇子を口元に当て、開け放した障子の向こう、見事な庭に視線を滑らした。
「今日東海本家から剣舞を舞う男児が来る。そのときにおいおい説明してあげよう」
 遠くを見る表情がふと揺らいだ。桜は無言でうなずく。

 東海家。古くは神代家の一の家臣として在った一族だ。今はその関係も風化してしまっているが。
 現在東海本家の屋敷は、東京に構えられている。しかし、当時の屋敷は桜が住んでいる家の向いにそのまま残り、分家として扱っているのだ。
 もともとの本家がそこなので、いまは前当主夫妻が預かっているそうだ。また正月などの他の行事に使っているらしい。
 桜は、そっと視線を上げて、雪路を見た。穏やかに微笑んでいる。まだ質問は許されるだろう。
「…でも、わたしは一族の祭事には…。それに、退魔師でもないし…」
 ――退魔師とは、その名のとおり、魔を払う者を指す。悪霊を、怨念を、すべての厄災を鎮めるのが役目である。
 桜の一族は、それを古くから生業として生きてきて今日に至る。当主はご神体を守るために力を使うが、それ以外のものはこの西の地を魑魅魍魎から守るために尽力しなければならないのである。
 けれど、桜はその修行はうけていなかった。禁じられていたのである。だから、こういう一族の行事には関わってこれなかったのに。
 どうしていきなり自分にそんな大役が回ってくるのだろう。桜の顔が堅くなる。
「…神楽の巫女は災厄潔斎を担う大切なお役目。確かに不安もあるかもしれない。けれど……精一杯励みなさい。期待しているよ」
 桜の黒目がちの瞳が更に大きくなった。
 次兄と違い、長兄とは一緒に暮らしていないせいか日頃から接点がなく、近寄りがたい雰囲気があった。
 その兄から信頼を寄せられることはめったになく、この上なく嬉しいことだった。
「…は、はい…っ…頑張りますっ」
 桜は、頷いて、頭を下げた。雪路は笑みを浮べて応え、それから雪矢に視線を向けた。ああそうそう、というふうに。

 桜は庭先に眼を向けた。神社本殿に続く壁渡殿の屋根に、なにかがきらきらと太陽の光に反射している。
 それは、ゆらり、ゆうらり、と空中を舞っていた。
(…蝶…?ううん、ふつうの蝶じゃない…あれは…)
 桜は眼を凝らした。そして、あやうく声を上げそうになった。
(…水の…蝶…?)
 毎夜のように夢に見る不思議な光景にかならず在る水の蝶。知らず鼓動が早まった。
 きゅ、と袷を掴み、兄たちの様子を伺う。
(どうしよう。いまはまだあそこにいるけれど、消えてしまうかもしれない)
 桜はおろおろと不自然な動きを繰り返してから、すぐ戻ってくればいいよね、と結論づけた。
 そして、桜は腰を浮かしてぺこりとお辞儀を(一応)してからその場を辞した。
「今日来る東海男の子についてなんだが…」
「はい。…桜、よく聞いて……って…あれ?」
「…いまさっき珍しい蝶を追いかけて出て行ったよ」
「蝶…?」
「ああ。直に戻ってくるだろう。そうだ。先にお茶でも飲んでいよう」
 雪路がぱんぱん、と手を叩くと、庭とは反対の襖からかしこまりました、という声が返ってくる。





 
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