ヒメサマのい・う・と・お・り

第15話 冷たい夜の夜想曲−nocturne−




 小さな溜め息と共に、エルザは庭園のベンチに腰をかけた。
 ようやく一日が終わった。何だか多忙な一日だった気がする。

 ――お父様のせいだわ……

 座った途端にどっと疲れてしまった。リィン、そしてサクラやエクルーとのお喋りも楽しかった。しかし衛兵から逃げ回り、ひたすら我が身を隠す一日というのは、どうにも疲れる。
 それに、

 ―― ……賢者の石、なんて。

 サクラから聞かされた、『妖精の園』で会話していたという男たち、そしてどこかで亡くしてしまった指輪。
 大好きな祖母から託された大事なものだったのに。もう一度、小さく溜め息を吐く。これからどうなってしまうのだろう。三日後の自分は、どうなっているのだろうか。
 顔を上げると、先ほどよりやや傾いた綺麗に輝く満月が目に飛び込んでくる。柔らかな月光が、染み渡ってエルザの心身を癒してくれるような気がした。
「……綺麗な満月ね」
 ややうっとりとした声で呟いて、なんとはなしに空に手を伸ばす。その刹那、
「……満月の夜に女性が出歩くのは感心しませんよ」
「!? 誰?」
 ベンチの反対側――花壇の向こうの芝生から、唐突に声が上がった。どこかで聞いた覚えがあるような、静かで落ち着いた少年の声だった。
 ぱっ、と立ち上がってベンチの向こうを振り返る。さらりと流れた風にはためく黒衣と同じ色の髪、からからと音の鳴る小さな水筒を提げた白い手が見えた。閉じられていた一つ目の左眼が、ゆっくりと開かれる。
「今晩は。これは失礼。盗み聞きなんてつもりはなかったのですが」
「あなたは……」
 それは昼間、王城の中で衛兵からエルザを庇い、逃してくれたあの少年だった。月明かりの中に薄青く 見える芝生の上に寝そべりながら、からからと水筒を振っている。かすかに甘ったるいような、けれど強烈な何かの匂いが風に乗ってエルザの元まで届いた。
 この匂いは……お酒だ。エルザも王族のたしなみとして、式典などで口にするから分かる。かなり強いお酒の匂い。それが少年の持っている口の開いた水筒から流れてくるのだ。
「……いつから、そこに?」
「貴女がいらっしゃる随分前から」
 少年は半身を起こして、手の中の水筒を一気に煽った。かなり強い酒のはずなのに、少年の頬はまったく赤くならない。呂律もしっかり回っている。
「……まったく不都合なものですね」
「?」
「アルコールに強い我が身を呪います。量を飲めるのはいいですが、酔いたいときにちっとも酔えやしない」
 ふぅ、とエルザに勝るとも劣らない陰鬱な溜め息を吐く。諦めたように水筒の口を閉じる。甘い匂いが漂うのをやめて、消えていく。
 ふと気がついて、エルザは花を潰さないように花壇を越えると、少年の前に出た。深々と頭を下げる。
「昼間は助けてくださり、ありがとうございました。それなのに私、失礼なことを……」
「構いませんよ、気にしていませんから」
 何でもないように少年は答える。エルザはほっと胸を撫で下ろすが、それと同時に疑問が浮かんできて、少年の隣にちょこん、と腰を下ろす。
「さっきのは……どういう意味ですか?」
「?」
「満月の日に出歩いちゃいけない、というのは?」
「ああ、あれですか」
 少年は受け応えて、先ほどエルザがしていたように満月へと手を伸ばす。包帯の指先の合間から、月光をまぶしそうに眺め、
「“lunatic”、という言葉があります。直訳すると“狂気”、ですね」
「狂気?」
「ええ。月に魅入られる、とか月に酔う、などの表現を聞いたことがありませんか?
 女性にはロマンチストが多くいらっしゃる。それはそれで女性の魅力なのでしょうが、そういう女性には月という神秘的なものを眺めていると、妙に不思議な気分になる方が多いそうです。そういった女性ほど危険なんですよ」
「何が危険なんですの?」
 くすくす、と何か含んだ笑いを漏らす少年に、エルザは小首を傾げる。
「逆に男は満月の夜ほど現実的に急に雄雄しくなる方がいるそうで。それも月の魔力なんでしょうかね」
「どう……なるの?」
「そうですねぇ、まあ、簡単に言えば――狼男が変身するのは大抵、満月なんですよ。そういうことです」
「?」
 エルザは、答えのない謎かけを出されているような感じがして、ますます眉間に皺を寄せた。腕を組んで、何かを考え込むような仕草の後に、
「でも、私、満月になってもお父様が狼になるところなんて見たことないわ。それに昨日、ちょっとだけ狼に似た方と知り合いましたけど、とても良い方でしたもの」
「……」
 少年は横目でエルザの顔をまじまじと見た。何か見透かすような黒曜石のような瞳と無音の時間に、エルザが気恥ずかしさに少しだけ肩を竦めた途端、ぷっ、と小さく少年が噴き出した。
 そのまま声を上げて肩を震わせて笑い始める。
「え? 何が可笑しいんですか?」
「ぷっ、くっくっく……あはははは……。
 くっ、ああ、これは失礼しました。いえ、そうですね……誰しも狼というわけではないですから、そうなのかもしれません」
「……」
 自己完結したように見せかけて、さらに笑い続ける少年に、エルザは頬を膨らませる。
「ははは、はー……。
 こんなに笑ったのは久しぶりです。逆にお礼を言わなくてはなりませんね」
「……別にいりませんっ」
 何だか納得がいかなくて、唇を尖らせたままそっぽを向く。くすり、という笑いが漏れて、少年は再び芝生の上に横たわった。
「それで、先ほどは何に溜め息を吐かれていたんですか?」
「……」
「王女と間違われて、男性に口説かれでもしましたか?」
「え?」
 少年が口にした思いもよらない言葉に、エルザは素っ頓狂な声を上げて振り返る。少年はふー、ともう一つ、息を吐いて星の浮かぶ暗い夜空に視線を投げた。

「見る女性、見る女性、皆誰かに捕まっているように見えましたからね。皆さん、旺盛だ。最も、僕もその輪に入らなければならないところなんですが――どうにも、好きになれなくて」
「……」
 エルザは沈黙する。サクラも昼間、男たちに絡まれていたようだった。それを聞いた時は本当に腹立たしかった。助けてくれた名もしらないエクルーには本当に感謝している。
 それに、余所の名も知らない男性に付き纏われている侍女や招待客の女性も何人も見た。
 エルザは膝を抱えて月を見上げた。
「…婿候補の皆さんは、何故そんなに王女へご執心なのだと思います?」
「……全員、とは言いませんが……」
 ぽつり、と漏れたエルザの一言を少年が拾い上げる。星を数えるように指を立てながら。
「例えば……没落寸前の貴族、貧しい国の王子、軍力の少ない国の将軍、遠く交流を持たなかった古い国の重鎮。他にもいろいろと。
 ……皆、何かを背負ってここに集まっています。好きにはなれませんが、必死になる理由はわかる気がします。そういった方々は、エルザ姫との結婚に賭けているのです。自分の国と、民の命運を。
 中には恋人を裏切った方もいるかもしれない。長年の夢を諦めた方もいるかもしれない。
 ……こんなことを言っては、エルザ姫には、お気の毒なことですが」
「……」
 エルザは少しだけ俯く。エルザは、この壮大なお見合いが決められたとき、そんな馬鹿なことをと思った。ずっと好きな方と結婚できると思っていたのに、と思った。
 でも、国のためと言われ、父の命に、結局は逆らえなかった。とても憂鬱で、悲しかった。
 同じ思いを、ここにいる参加者の人々がしている……?
 考えたこともなかった。自分のことに精一杯で、自分の名前に群がってくる男たちが、どんな想いでいるかなんて。
 だから目の前の少年から言われた言葉に、胸が痛んだ。

 ――……私一人が、逃げているのかもしれない。

 エルザはぎゅ、と襟元を握り締める。

「あなたは…」
「……」
「あなたは、何故エルザ姫と?」
「……」
 少年は、なかなかその問いに答えなかった。逡巡するように空を眺め、月を眺め、星を見回して、遠い目を空虚な風に投げた。
 エルザはその少年の動作の一つ一つを、固い表情のまま見つめていた。長い間だった。
 するり、と風が流れていく。少年の変わらなかった表情が、わずかに自嘲的なものに変わる。
 そして、包帯だらけの指を一本、夜空に翳した。
「……?」
「エルザ、という小惑星があるのをご存知ですか?」
「え?」
 遠い目のまま、空を差し、少年は呟くように言った。エルザははっとして少年の指差す方向を見る。
「恒星の一つです。小惑星帯にあるそうでして。
 その恒星の重力に引かれて周りを複数の暗く、小さい伴星が回っているそうです。幾つも、ね」
「……」
「……その伴星は何故、恒星に集まるのだと思います?」
「……」
「そうですね、例えば――」
 すっ、と少年の目が細められる。笑みを浮かべているはずなのに、エルザには、それが笑みに見えなくて少しだけ戸惑った。
 ぞくり、と背中に寒気が走る。否応なしに口説いてくる男性たちに触れられたわけでも、大嫌いな蛙を知らずに踏んでしまったわけでもないのに。
 細めた瞳で、何かを覗くかのように、少年は口を開く。
「恒星から、光を奪い取るため――とか」
「……」
 耳元できりきりと音がする。ぐらりと目の前が回る。ごくり、と口の中の固唾を飲み込んだ。この人は、この方は今、何を口にしているのだろうか……。
 まるで、その伴星が自分だと言わんばかりに、何を……。
 問いただすように向けられる黒い瞳から目を逸らし、エルザはぎゅ、と目を閉じる。冷たくて、身を裂かれるような恐怖が消える。

 代わりに蘇って来たのは昼方、エルザを抱え上げた暖かな言葉と手だった。
 はっと我に返る。そうだ。昔、お祖母様も仰っていた。目に見えるものだけに、惑わされちゃいけないって。
 ぐっとお腹に力を入れる。そして少年へ向き直る。
「……私は、」
「……」
「私は、その伴星は……きっと自分でも輝きたいのだと思うわ」
「……」
「輝きたいから、自分でも輝きたいと思うから、輝き方を知りたくて、恒星に惹かれるの」
「……」
「もしも私がエルザ姫だったら……。出来るなら、その伴星に輝き方を教えてあげたい。だって、そうしたらもっとこの空は明るくなるわ。そうしたら――」
 言葉はそこで止まってしまった。エルザ自身、何を言いかけたのか、何を言えばいいのか、分からなかったのだ。少年はエルザの出切らない言葉に瞳を閉じて首を振った。
 水筒を拾い上げて、すっ、と音もなく立ち上がる。
「あの……ッ!」
「……僕はもう行きます。ここにいると、酒でもないものに酔わされそうだ」
「…?」
 エルザを見下ろした彼の瞳からは、先ほどまでの冷たい光はすっかり消えていた。代わりに昼間も感じた、労わるような、温かな落ち着いた光が灯っている。でも何故だろう、ほんの少しだけ、どこか悲しげにも見えた。
「それに――馬に蹴られるのは御免です」
「?」
「御機嫌よう。では」
 少年はさっと肩膝をつくと素早くエルザの手を取った。形式通りに手の甲に口付けの振りをする。だが、故意なのか偶然なのか、引いた指先にほんの僅かだけ、実際に彼の唇が触れてエルザの頬を染めさせた。
 くすり、と少年は笑いを漏らし、昼間と同じ、ばさりと黒衣を揺らしてあっという間にその場から立ち去っていく。

 呆けたエルザがぺたん、と芝生に尻餅をついて、

「アサギーッ!」

「あ」

 遠くの方から、獣人の少年が呼ぶ声が聞こえた。振り向くと、昨日知り合ったばかりの少年が、金の髪とふさふさの尻尾を揺らして駆けて来る。

「リィン。どうしたの?」

「どうしたの、じゃなくて……窓からアサギの姿が見えたから。こんな夜分に危ないじゃないか」
「あ、そ、そうね……。ごめんなさい」
 気がついて見ればもう深夜だった。ちらりと、件の少年が去っていった方角を見るが、人影は既にない。彼の部屋に戻ったのだろうか?
「アサギ、誰かと一緒だったの?」
「あ、ううん……。なんでもないの」
 問いかけてくるリィンに首を振る。もう一度、息を吐いて、ふと思いついた。
「ねぇ、リィン」
「?」
「『馬に蹴られる』、ってどういう意味なのかしら?」
 エルザの無邪気な問いかけに、リィンがしばらく脂汗と共に閉口したのは言うまでもない。




 
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