ヒメサマのい・う・と・お・り

第13話 炎の石




 アルが目を覚ましたとき、月は中天に差し掛かったところだった。足元にリィンがベッドにうつぶせになって寝ている。ずっとついていてくれたらしい。ありがたいと思うと同時に、自分が情けなかった。”賢者の石”に近づく絶好のチャンスなのに、こんな風に過敏に反応してのびてしまったのでは、役に立たないではないか。
 頭をボリボリかいて伸びをしたアルは、部屋の暗がりにエクルーがうずくまっているのに気がついてぎくっとした。
「何だ。驚いたな。何でそんなとこでイジケてるんだ。腹でも減ってんのか? そこにジンが持ってきてくれたメシがあるぞ」
 エクルーはのそっと影から出てきて、食事のトレイを持ってベッドに運んで来た。
「ああ、サンキュ。お前も喰えよ」
 アルにスープの鉢を渡して、エクルーは自分も果物をかじり始めた。
「で、何なんだ。何を落ち込んでるんだ」
 アルに追求されて、エクルーはうつむいた。
「もう十分に重いものをしょってる子に、さらに追い詰めるようなことを言っちゃったんだ」
 しばらく黙って、スープを食べながらエクルーの顔を眺めていたアルはぼそっと言った。
「どうせその女の子がアヤメに似てた、とかだろ?」
 エクルーは慣れているので、今さらどうしてわかったんだ? などと追求しなかった。ただ、ため息をついてぼそっと「それって八つ当たりだよな」とつぶやいた。
「そんなに悩むぐらいなら、きっぱりアヤメを振ればいいんだよ」
「告白されてもいないのに、どうやって振れというんだ」
 珍しく、エクルーが声を荒げて言い返した。
「いくら俺はサクヤ一筋だってアピールしても……相手は自分の母親だろ、説得力ないんだよ。そのうち目が覚める、と思われてるようで……何だか腹が立って来ちゃうんだ」
 アルの口に微笑が浮かんだ。
「そんなに好きなら、こんなとこにつき合わないで、サクヤについてりゃ良かったのに」
「サクヤの最後に残された時間を独占するわけにいかないだろ。俺がいると、キジローは遠慮しちゃって、サクヤにキスもできないんだぜ?」
 エクルーはため息混じりに養父の名を出した。
「それにサクヤもね。俺に遠慮してキジローに甘えられないんだ。第一、サクヤが俺に頼んだんだ。”石の子供たち”のためにカルミノに行ってくれって。どういうことか、ここに来るまでわからなかったけど」
 サクヤは未来をを予知する巫女の一人なのだ。アルがにやりとした。
「それじゃあ、がんばらないわけにはいかないよな。ほら、もっと喰え」
 アルが自分の皿から肉やゆで野菜をフォークに刺して、エクルーに差し出す。
「それにその子が、俺たちの探し物に協力してくれるって言い出したのに……断っちゃったんだ……ごめん」
 アルがまじまじと顔を覗き込む。
「どうしてまた?」
「だって……何だか利用するみたいでイヤだったんだよ」
 エルザ姫なら王位継承権第一位、きっと誰よりも石の情報を持っているに違いないのに。せっかく彼女から言ってくれたのに……彼女の行為を受け入れることは、アヤメの気持ちを利用するようで、何だかすごく後ろめたかったのだ。
「まあ、いいさ。まだチャンスはあるよ。ほら、イモも食え」
 アルはくつくつ笑いながら、ゆでたジャガイモを差し出す。
「もういいよ。アルが喰えよ」
「じゃあ、イチゴをもう一個」
 エクルーは逆らわずに、過保護な義兄の差し出すいちごを食べた。そして、飲み込むとベッドに突っ伏した。
「そうそう。子供は食って寝りゃあ、元気になるもんだ」
 エクルーが眠りに落ちているのを確認して、アルはそっとベッドを抜け出した。
 たった3日しか時間がない。心配してくれる少年達には悪いが、この広大な王宮の敷地の中で、どこに石があるかだけでも、早く突き止めなくては。
 昼間、気分が悪くなった辺りが怪しい。でも、石の在り処がわかる前に意識を失ったのでは、役に立たない。昼間みたいにトランスに陥って、周囲を破壊してしまうのではもっと始末が悪い。どこからアプローチしよう。


 アルは昼間、台風を巻き起こしてしまった辺りを見下ろす斜面に腰を下ろした。結跏趺坐を組み、呼吸を整える。
 まず、二度と台風を起こさないようにブロックする。これは諸刃の剣だ。限界を超える負荷がかかっても、ヒューズが飛ばないわけだ。目を閉じて、石の波動を探す。ここからでも、石が熱い。これはイメージの熱だ。自分に言い聞かせて、熱の中心を探す。どこにある? 土の中か? 水の中? このイメージは何だ? 暗い……空洞……石段を降りて……。
 くそっ、熱い。意識が焼き切れそうだ。石の波動に負けるな。炎のイメージをすり替えるんだ。明るい、赤。澄んだ赤を見た……朱い瞳……ああ……そうだ。カシスと言った……。

◇ ◇ ◇


 アルが倒れている斜面の下、”秘密の庭”で漆黒の髪をさらりと揺らして、ひとりの少女が祈りを捧げていた。
 彼女の背後で、仕官服に身を包んだ少年が、(どうしてこんな夜に外いかなきゃなならないんだよ)とぶつくさ言いながら立っていた。少女を見守りながらも、油断なく周囲に気を配っている。
「……ふう。ソウガさん、ありがとうございます」
「夜会行くの?」
「うー、何故かエルザさまにはメイド部屋集合って言われているんです。だからそっちに……」
 その時、斜面の方に人の気配がして、少年は耳をすませた。少女も、ただならぬ緊迫感に顔を上げた。誰かが苦しんでいる。助けを求めている。そんな気配だ。
「……」
 サクラは困ったような顔でソウガを見た。ソウガは憮然とした表情を崩さない。早く帰らなければ、夜風は姫の身体に障るのだ。そんなソウガの心情を察しても、サクラはソウガの袖をぐいぐい引っ張って、気配の元に向かった。

◇ ◇

 先ほどからぴりぴりと耳の辺りが痛い。頭の中に、何かのイメージがちらつく。
「……うぜぇ」
 片手でこめかみを押さえながら、カシスは身体を引き摺るように昼間、在り得ない親切を働いてしまった農園近くの庭園の斜面まで足を運んだ。
 呼べとほざいてしまったのは自分だ。甚だ不本意だが事実だった。そして、今はあの自殺願望男と会って置く必要があると悟っている。

 だが、この呼び方だけはどうにかならないのか? 

 ずざ、と斜面を降りて、ぷつんと頭の中の信号が切れた。視線を下げると、昼間のあの男が性懲りもなく地面に転がっていた。
 カシスは舌打ちをすると乱暴に男の首根っこを掴んで顔を覗き込み、それから首筋を触った。呼吸が止まっている。脈も弱い。
 カシスは迷わず男をうつぶせにした。そのまま、背中を思いっきり踏んだ。2、3回。華奢な人間なら背骨がいかれるほどの勢いで。気道確保、心臓マッサージ、両方を補えるスグレモノの方法だ。あくまでカシス的には、だが。
 がっ、かはっ。ひゅっ、ひゅう。無様な音を立てて、男が息を始めた。うっすら目を開けてカシスの顔を確認すると、にやりと笑った。
「意外と……親切なんだな……2回も……助けてくれるなんて」
「はっ、自殺は迷惑だつっただろうが」
「……死体の処理に……来てくれたのか?」
 アルの目の光がはっきりしてきたので、カシスは薄い唇に笑みを浮かべてとして憎まれ口を利いた。ひっくり返して気道を確保してやる。
「同じ自殺なら腹上死の方が気が利いてるぜ?」
「残念だな。そんなに気張ると女の方が先に死んじまう」
 アルも答えるようににやりと笑った。
「名乗ってなかったな……俺はアルだ。ただのアル。それ以外の名前はない」
「悪ぃが名前なんぞに興味はねぇんだ。それで? 何をしてて2回も俺が助けるハメになったか聞かせてもらおうか」
「探し物だ」
「ふん。何を探してたってんだ?」
 アルが返事に詰まった。言い澱む彼に、カシスはくっくっく、と喉の奥から笑いを漏らし、喉を逸らせて気道を保っていた手で彼の胸ぐらを掴み上げる。
「てめぇの狙いはカルミノ王家の秘宝だ。違うか? ”賢者の石”。聞いたことがないたぁ、言わせねぇぜ?」
 カシスに言い当てられてられても、別段、アルは驚かなかった。おそらくアルもまた、同じものを探している予感はあったのだろう。だが、アルは一瞬表情を歪めて、わずかに身を起こすと、声を潜めてカシスの耳にささやく。
(俺たちは観察されてるぞ)
 背後の植え込みに2組の目がこちらを観察している。ローティーンの少女と少年が目をまん丸にしている。大の男が2人、抱き合っているので驚いたというところか。

それを横目で確認すると、カシスはふん、と鼻で笑い飛ばす。
(どうせ招かれざる客だ。サービスくらいしてやるべきじゃねぇのか?)
(じゃあ、助けてくれた御礼だ)
 アルはカシスの後頭部をつかむと、かなり乱暴なキスをした。少女の目がますます丸くなる。
(……悪ぃ男だな、てめぇも)
 まさかその行動は読んでなかった。だが、カシスはむしろ可笑しそうにくくく、と笑う。アルの方はというと、手の力が抜けたと思うと、またカシスの腕の中で気を失った。
 今度はちゃんと呼吸しているらしい。まあ、眠らせておくことにしよう。はぁ、と肩を上下させる。

 ――とりあえずは、だ。

「……物陰で人の会話をこそこそ盗み聞きたぁ、随分と高尚な趣味じゃねぇか、ええ? サービスショットは終わりだ。潔くなったらどうだ?」
 植え込みへと声を投げかけると、少女の方がおずおずと顔を出す。後ろにいた少年が、焦った様子で「おい!」と声を発した。
「……ごめんなさい。あの、助けを求める気配がしたもので……。その方、あなたの恋人なんですか?」
 素直に問いかける少女の横で、少年がひくっと顔を引き攣らせる。カシスは胸中で密かに噴き出した。あえて口を噤む。
 少女は少しだけ俯いて、何かを一所懸命に考える仕草をしてから顔を上げた。絹布を被っているので風貌は分からないが、勇気を振り絞っているようだった。
「…だから、こんな夜に会うんですか? 私……応援しますねっ」
 少女は両の拳を握って何やら力説し始める。少年は既に石化していた。肩を震わせて笑いながら、カシスは少女を見返した。
「……で、こんなちっさな嬢ちゃんが、夜に外で何してんだ? 随分と可愛らしい騎士様が焦ってるぜ?」
 黒髪の少年は、”可愛い”という言葉にカチンと来たらしい。目を三角に吊り上げて、少女を背後に庇い、首をいっぱいに上向かせてカシスを睨み上げてくる。
「失礼な口を利くな! こちらにおられるのはシュアラ国が皇女、サクラ姫だぞ!」
「……シュアラの、姫……?」
 カシスは少年の言葉をやや硬い声で繰り返す。普通の人間なら、謝り倒すかもしれない。顔を青ざめさせるかもしれない。それほど大陸の中でシュアラという国は高尚なものと扱われているからだ。
 だが、カシスはそのどちらでもなかった。すっ、と彼の表情が乾き、冷えていく。
「……ああ、噂の巫女姫、ね。他人の記憶が読めるだの、癒しや救いをもたらすだの言われてる……」
「……」
 吐き出した台詞に明確な悪意が灯る。サクラの肩がびく、と震えて、ソウガが眉を吊り上げた。
「他人の過去を駄々漏れさせて楽しいか? お高く止まってる身分と生活で、癒しだの救いだのほざくんじゃねぇよ。出刃ガメがご趣味の巫女姫なんざ笑わせらぁ」
「!」
 サクラの身体が完全に固まった。ソウガの表情が騒然となり、こめかみに血管が浮く。
「貴様、口を慎め……!」
「ああ、慎んでやるよ。王族貴族なんてろくでもないもんと会話する口は持ち合わせてねぇもんでね」
「…!」
 ソウガの手がぶるぶると震える。剣の柄に手を伸ばし、引き抜きかけるのを背後にいたサクラがかろうじて止めた。
「ソウガさんっ駄目!!」
 からん。

「あ……」
 その拍子に、左手の青い石のブレスレッドが、ソウガの剣の柄にひっかかって滑り落ちる。少女は慌て、拾おうとしゃがみこんだ。
 カシスはズダ袋でも抱えるように、無造作にアルを抱え上げる。
「じゃあな、ガキは寝る時間だぜ」
 怒りで震えるソウガと、感情が消えうせた表情のサクラの脇を、アルを抱え上げたまま悠々と通り過ぎる。
そのとき、偶然にもしゃがみこんだサクラの腕と、カシスの踏み出した膝とが、わずかに触れた。
「……!?」
 サクラは口元を抑えて蹲る。それに気がついたソウガは、目を見開いて「サクラ!?」と焦り声を上げる。
 カシスはちらりとそれを一瞥しただけで、ざくざくと下生えを踏みつけて去っていった。
「サクラ! 大丈夫かッ!?」
「は、はい……だ、大丈夫、です……」
 込み上げる吐き気を抑えながらサクラはソウガに微笑んで見せた。触れたのはわずかだったし、そのときにはもう青い、力の封印の石に触れていたから、極弱い影響で済んだようだ。
 サクラは気分の悪さを堪えて立ち上がる。サクラは差しのばされた手に自分の手を載せた。
「……ソウガさん」
「何?」
 これ以上ないほど悔しそうな、不機嫌な表情をするソウガにサクラはぽつりと呟く。
「……『赤』と『黒』しかなかったんです」
「は? 何が?」
 サクラは一瞬躊躇してから、空いた片方の手でソウガの袖を強く握りしめる。
「あの方の記憶。二色しか、なかったんです。……それから…すごく、寂しくて…」
 表情のない顔色がどんどん悪くなっていく。ソウガは無言でサクラを引き寄せた。ぽんぽんと頭を撫でる。腕の中でサクラが身体の力を抜いた。
 ――他人の過去を駄々漏れさせて楽しいか? だと?
 確かにこの姫君は記憶を読める力を持っている。だが、この能力のせいで姫は身体を蝕まれ、時には生死の境をさ迷うことがあるのだ。
 先代の帝―つまりサクラ姫の祖父はその能力を利用してクロキアとの戦いに挑もうとしていた。それを止めたのが、姫の父と当代の帝ユキジである。
 そしてサクラは、一度たりとも私情で能力や権力を行使したことはないし、この能力に嫌悪を抱き、抑えこむことを常としている。
「ソウガさん…」
「なに」
 不機嫌に返す。腕の力を緩めると、ふんわりと両頬をサクラの白い手が包み込んだ。そこには幾分か顔色のよくなったサクラの笑顔があった。
「怖い顔、しちゃだめです。民を護り民を治める者がいつどんなときでも敬われるとは限らないんですから」
「だけど、」
 ぐいっとサクラはソウガの頬を引っ張った。鼻の先と先が擦れ合うほど顔が近付く。たじろぐ漆黒の瞳と静かな琥珀の瞳がぶつかった。
「王族として生きるからには、覚悟はしています。……先ほどのように感情に任せ剣を抜くなど、それを増長させるようなものです。シュアラの軍人として誇りを持ちなさい。二度は許しません」
 ソウガがぐ…と押し黙る。小さく笑ってから、「でも」とサクラはふっくらとした唇をほころばせた。
「わたしのために、怒ってくれて、ありがとう」
 ソウガは何かを言いかけたがぷいっと明後日の方向に顔を向けた。サクラはソウガから離れて、夜空を見上げる。そして、先ほどの男性の記憶の断片を仄かに思いだした。
 頭に閃いたのは、その二色に彩られた、色のない記憶。真っ白な、真っ白な綺麗な空間が、暗い『赤』と『黒』に侵食されていく、そんなイメージだった。

 先ほど叩きつけられた言葉が、頭の中にリフレインする。

 ―― ……あの人。何で、あんなに……。

◇ ◇


 どさりッ!

 カシスは自分達の客室のベッドに、アルと名乗る男を投げ出した。器用に担いでいた杖で、凝った肩を叩く。さて、尋問タイムでも始めようか。
 ところが、ベッドに寝かせたアルはいくら乱暴につついてもいっこうに目を覚まさない。一度は杖で殴打でもしてやろうかと思った。
 苛立だしげに息を吐いて、肩をぐいっと揺すると、

 ぐい。

「!?」
 どういう夢を見ているのか、逆に抱きつかれてベッドに引きずり込まれた。そうして、男はカシスにのしかかったまま、すうすうと寝息を立て始める。
「……ンの野郎…ッ!」
 ぞくりッ……
 悪態を吐いたと同時に、男が苦しげな呻き声を上げて腕を回してくる。肩口に、腕に、他人の節くれの腕が絡みつく。
「ぅ、っぁ……くッ……!」
 背筋が寒く、身体がびりびりと錯覚の痛みに襲われた。全身から脂汗が噴き出す。目の前に無数の手が見える。暗闇の中から、汚らしい皺だらけの手を伸ばしてくる。
 その手から逃れるために足掻こうとしても、がっちりと拘束された手と足は、カシスの言うことを利かない。汚れた手はそのまま髪を、腕を乱暴に掴み、あるいは絡み取って、そして、
「……ッ!」
 目の前にフラッシュバックした幼い、遠い記憶に、ぎりぎりと歯を噛み鳴らす。がんがんと頭の中に忌まわしい音が響き始める。
 錯覚の拘束と錯覚の痛みに、完全に体が奪われる前に、カシスはのしかかる男の腹を蹴り飛ばそうとした。が、
「死ぬな……」
「!」
 ぽつり、と聞こえた声に上げかけた足を止めた。ぱたり、とまず枕が濡れて、次に肩元に同じ温かい雫が垂れてくる。
「すぐ……迎えに行くから……待って、て、くれ……」
「……」
 まだ自由の利く右腕で、カシスは白髪の頭をがりがりと掻いた。

 ――今度は寝言に夜泣きかよ……くそ……

 大の男が、よく知りもしない野郎の前で、何でこんな無防備になってやがる。どれだけ人を疑わない、いや、疑わなくてすむ幸せな人生を送ってきやがったんだよ。
 胸中で悪態を吐いて、ふと、やや視線を移動させる。するとその目に、昼方カシスが巻いた左の義手に付けられた護符が目に入った。
「……」
 刻まれた治癒と復活の印は、初めて本ではなく他人から学んだ呪。カシスにそれを教えた人間もまた、彼を裏切って消えていった。
 けれども、あの忌々しい記憶を思い出すときは、よく彼の腕の中で寝た。魔道技師という仕事上、切り傷だらけではあったが、彼のその少しやつれた手だけは自らを蝕むものではないと信じていた。……もう、随分昔の話だが。

 ―― ……くっそ、ムカムカする……ッ!

 こんなへらへらした優男が、一体全体何を抱え込んでいるというのだ。てめぇに聞きたいことがなかったのなら、喉元くらいこの場で掻き切ってやれるのに。

 胃の中が煮えくり返りそうだ。けれども、のしかかる男の体温に、ありったけの罵詈雑言を頭に思い浮かべているうちに、カシスはいつしかうとうとと心地良い眠りに落ちていった。




 
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