セカイよさようなら
このセカイから、いなくなります。
あーあ。つまんない。空飛びたい。
そう言うと、タクは、眉を潜めました。
ただ、わたしのこんな変な言動はたまに…いやよくあることです。
だからタクはすぐに持っていたバスケットボールをなにごともなかったかのように
シュートに入れました。それも、その場から一歩も動かずに。
バスケば…失礼。バスケ大好き少年のタクは、冗談もほどほどにして、早く帰れよと煩わしそうに言ってきました。
でもそうはいかないのです。
なぜなら、カナの好きな人は、いま目の前に居る、タクなのですから。
だからなんだという野暮はぬかさないでくださいね。
いなくなるまえに両思いに、と願うのはあたりまえのことです。
だから、わたしは聞くのです。
「タクは、だれがすきなの」
でも彼はちらりと視線を向けるだけで、なにも言いません。
まるで俺の好きなのはバスケだけだ、とでも言うように。
私はため息を吐きました。
なんで――と。声が返ってきます。
どうしましょう。正直に答えるわけには行きません。
だから、私は言いました。
「幼馴染だからだよ」
タクは納得したようで、またゴールと向き合いました。
単純。まあそこが彼のいいところです。よく言えば素直なのです。
だん、だん、だんと規則正しく刻まれるリズムに、私はしばし目を閉じました。
このリズムは、とても安心します。
ぼろぼろの借家に帰ると、お酒の匂いがつん、と漂っていました。
慣れたものです。
私はそうっと居間を覗き込みました。
テーブルに項垂れる男の人。私の父親。
泥酔――という言葉がぴったりです。
ママは、いま病院。もういつ死んでもおかしくない容態です。
とても、優しい人です。でも最近は笑顔を拝んだこと、ないです。
そして、パパは、かっこいいけれど、弱い人。それで、ママをとても愛しています。
愛してるから、介護のために、仕事をやめたのです。
パパ、ただいま。
心の中でそっと呟いて、部屋に行きます。
鞄を置いてから、一息。
ぺたんと色あせた畳に座り込み、タクのことを考えました。
計画は、念入りに、です。
でも、
カナがセカイからいなくなるまで、時間があまりなくなってきました。
そのとき、パパの声が響きました。
私の名前です。苦笑をして、立ち上がります。
次の日、バスケ部終了後。タクが一人で自主練していたところに私は声をかけました。
バスケットボールを指の上でくるくる回しながら、
タクは少し眉を潜めました。
話さない?体育館の観客席からタクを見下ろして。
「このままでいいから」
「…首、疲れるんだけど」
「いいじゃん」
タクは、私の髪に隠れた小さな痣に、目を留めて、唇をかみ締めました。
「………おばさん、平気なのか」
「んー……?うん」
「おじさん、元気か?」
「うん。大丈夫」
「……おまえ、大丈夫か?」
タクは不器用だけど、すごく優しい。
うん、と頷いて私は笑います。
セピア色に染まる体育館。とても切なくなりました。
その夜。
ママが逝きました。
パパはママの亡骸にすがりついて、泣いていました。いつまでも。
私は、呆然としたままです。最期まで、ママは笑ってくれませんでした。
ママの弟と義妹さん、私にとってのおじさん夫婦が来て、
パパをやっとのことで引き剥がしました。
パパはぺたりと床に座り込んで、子どものように泣き続けました。
私はおばさんに手を引かれ、廊下に連れて行かれました。
「これからどうする?」
優しそうなおばさん。おじさんもとても良い人だ。
子どもが居なくて、いつも私を可愛がってくれた。
「…お義兄さんが、あれじゃ……借金も、たまっているんでしょう?」
廊下まで泣き声は聞こえてきます。
その横でなだめすかすおじさんの声は、段々苛立ってきていました。
私は、じっと俯きます。
「……もし、あなたが良ければ、なのだけれど…養女になってくれないかしら?」
優しい言葉に、私は曖昧に笑いました。
パパはもう私がいらない。
ママがすべてだったひと。
でも、でも。
「……おばさん、私ね、いまはパパの近くに居てあげたい。すこし、考えさせて貰っていいですか?」
はっきり、言いました。
おばさんはしっとりと瞳をしめらせて、頷きました。
ごめんなさい。と私は頭を下げた。
お通夜、お葬式。出席は親戚だけ。
喪主はパパのはずだけれど、部屋から出てこない。
おじさんが喪主に立った。
その夜。タクから電話がありました。
なんだか久しぶりに感じました。たった一日聞かないだけで、こんな気持ちになるなんて驚きました。
『…………よう』
躊躇いのある挨拶。私は少し笑いました。
視界の端で、パパが、ママの遺影に手を伸ばし、
ぎゅうっと抱きしめています。
ああ、もうすぐ、セカイが終わる。
「……タク。あのね。」
『ん?』
「タクは、誰が好きなの?」
真剣に、言いました。言ってやりました。
タクは電話の向こうでたじろいだようです。
「…タク。教えて。」
パパが白い袋から、何粒もの薬を取り出しました。
『カナ、だよ』
タイムリミットです。間に合いません。
パパが、掌に広がった薬を、口に放り込みました。
でも、私は笑みを浮かべました。
「………もう、遅いよ」
掠れた声は、タクには届きませんでした。
『学校にはいつから来るんだ?』
「もう、学校に行かないの。……行けないの」
『え…?』
「……………だいすき、だよ」
パパが、ばたりと倒れた。次は、私の番。
お母さんの遺影の前で、少しだけ微笑んで。
パパの投げた白い袋から、薬を取り出しました。
受話器は、投げられたまま。
『おいっ―――――――カナッ!!』
セカイは、回る。
セカイは、巡る。
セカイは、歌う。
セカイは、叫ぶ。
セカイは、滅ぶ。
遠のく意識のなか、私はセピア色に染まった体育館と、
タクの不器用な笑顔を思い浮かべました。
いなくなる。
私は、このセカイから、いなくなる。
ダイキライとおもっていたセカイだけれど、
でも、あの放課後のセカイは、ダイスキだった。