セカイよさようなら

First Voice. 私はこのセカイからいなくなる



 カナは、いなくなります。
 このセカイから、いなくなります。



 あーあ。つまんない。空飛びたい。
 そう言うと、タクは、眉を潜めました。
 ただ、わたしのこんな変な言動はたまに…いやよくあることです。
 だからタクはすぐに持っていたバスケットボールをなにごともなかったかのように
 シュートに入れました。それも、その場から一歩も動かずに。
 バスケば…失礼。バスケ大好き少年のタクは、冗談もほどほどにして、早く帰れよと煩わしそうに言ってきました。
 でもそうはいかないのです。

 なぜなら、カナの好きな人は、いま目の前に居る、タクなのですから。
 だからなんだという野暮はぬかさないでくださいね。
 いなくなるまえに両思いに、と願うのはあたりまえのことです。

 だから、わたしは聞くのです。

「タクは、だれがすきなの」


 でも彼はちらりと視線を向けるだけで、なにも言いません。
 まるで俺の好きなのはバスケだけだ、とでも言うように。
 私はため息を吐きました。
 なんで――と。声が返ってきます。
 どうしましょう。正直に答えるわけには行きません。

 だから、私は言いました。

「幼馴染だからだよ」

 タクは納得したようで、またゴールと向き合いました。
 単純。まあそこが彼のいいところです。よく言えば素直なのです。
 だん、だん、だんと規則正しく刻まれるリズムに、私はしばし目を閉じました。

 このリズムは、とても安心します。
 

 
 ぼろぼろの借家に帰ると、お酒の匂いがつん、と漂っていました。
 慣れたものです。
 私はそうっと居間を覗き込みました。
 テーブルに項垂れる男の人。私の父親。
 泥酔――という言葉がぴったりです。

 ママは、いま病院。もういつ死んでもおかしくない容態です。
 とても、優しい人です。でも最近は笑顔を拝んだこと、ないです。
 そして、パパは、かっこいいけれど、弱い人。それで、ママをとても愛しています。
 愛してるから、介護のために、仕事をやめたのです。


 
 パパ、ただいま。

 

 心の中でそっと呟いて、部屋に行きます。
 鞄を置いてから、一息。 
 ぺたんと色あせた畳に座り込み、タクのことを考えました。
 計画は、念入りに、です。


 でも、
 

 カナがセカイからいなくなるまで、時間があまりなくなってきました。


 そのとき、パパの声が響きました。
 私の名前です。苦笑をして、立ち上がります。
 

◇ ◇ ◇


 次の日、バスケ部終了後。タクが一人で自主練していたところに私は声をかけました。
 バスケットボールを指の上でくるくる回しながら、
 タクは少し眉を潜めました。
 話さない?体育館の観客席からタクを見下ろして。
 
「このままでいいから」
「…首、疲れるんだけど」
「いいじゃん」
 
 タクは、私の髪に隠れた小さな痣に、目を留めて、唇をかみ締めました。

「………おばさん、平気なのか」
「んー……?うん」 
「おじさん、元気か?」
「うん。大丈夫」

「……おまえ、大丈夫か?」

 タクは不器用だけど、すごく優しい。
 うん、と頷いて私は笑います。
 セピア色に染まる体育館。とても切なくなりました。 




 その夜。
 ママが逝きました。
 パパはママの亡骸にすがりついて、泣いていました。いつまでも。 
 私は、呆然としたままです。最期まで、ママは笑ってくれませんでした。
 ママの弟と義妹さん、私にとってのおじさん夫婦が来て、
 パパをやっとのことで引き剥がしました。
 パパはぺたりと床に座り込んで、子どものように泣き続けました。
 私はおばさんに手を引かれ、廊下に連れて行かれました。
 

「これからどうする?」

 優しそうなおばさん。おじさんもとても良い人だ。
 子どもが居なくて、いつも私を可愛がってくれた。

「…お義兄さんが、あれじゃ……借金も、たまっているんでしょう?」 
 
 廊下まで泣き声は聞こえてきます。
 その横でなだめすかすおじさんの声は、段々苛立ってきていました。
 私は、じっと俯きます。

「……もし、あなたが良ければ、なのだけれど…養女になってくれないかしら?」

 優しい言葉に、私は曖昧に笑いました。
 パパはもう私がいらない。 
 ママがすべてだったひと。
 でも、でも。

「……おばさん、私ね、いまはパパの近くに居てあげたい。すこし、考えさせて貰っていいですか?」

 はっきり、言いました。
 おばさんはしっとりと瞳をしめらせて、頷きました。
 ごめんなさい。と私は頭を下げた。


 お通夜、お葬式。出席は親戚だけ。
 喪主はパパのはずだけれど、部屋から出てこない。
 おじさんが喪主に立った。
 



 その夜。タクから電話がありました。 
 なんだか久しぶりに感じました。たった一日聞かないだけで、こんな気持ちになるなんて驚きました。



『…………よう』

 躊躇いのある挨拶。私は少し笑いました。
 視界の端で、パパが、ママの遺影に手を伸ばし、
 ぎゅうっと抱きしめています。
 

 ああ、もうすぐ、セカイが終わる。


「……タク。あのね。」
『ん?』
「タクは、誰が好きなの?」

 真剣に、言いました。言ってやりました。
 タクは電話の向こうでたじろいだようです。

「…タク。教えて。」

 パパが白い袋から、何粒もの薬を取り出しました。

『カナ、だよ』

 タイムリミットです。間に合いません。
 パパが、掌に広がった薬を、口に放り込みました。
 でも、私は笑みを浮かべました。 

「………もう、遅いよ」

 掠れた声は、タクには届きませんでした。

『学校にはいつから来るんだ?』

「もう、学校に行かないの。……行けないの」

『え…?』

「……………だいすき、だよ」

 パパが、ばたりと倒れた。次は、私の番。 
 お母さんの遺影の前で、少しだけ微笑んで。
 パパの投げた白い袋から、薬を取り出しました。
 受話器は、投げられたまま。


『おいっ―――――――カナッ!!』



 セカイは、回る。
 セカイは、巡る。
 セカイは、歌う。
 セカイは、叫ぶ。
 セカイは、滅ぶ。


 

 遠のく意識のなか、私はセピア色に染まった体育館と、
 タクの不器用な笑顔を思い浮かべました。





 いなくなる。



 私は、このセカイから、いなくなる。
 
 ダイキライとおもっていたセカイだけれど、
 でも、あの放課後のセカイは、ダイスキだった。





 
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