Heavenly Days
「じゃあ、行ってらっしゃい」
ぽん、と頭をなでられる。俺は首をかしげた。
「…なんだよ。ついてこないのか?」
「ふふっせっかくだから遊んで帰りたいの。あとでちゃあんと帰るから」
にこにこ笑いながら、セラは手を振った。俺は立ち上がり、とりあえず駆け出す。目指すは俺の家、だ。
その時、俺は、遠くなっていく俺の背中を見ているセラの身体が、一瞬透けたのを気づくことができなかった。
玄関の前で、一呼吸。明かりのついた家の窓を見つめる。心臓が暴れて、足が震えているのが分かった。
爆発しそうな感情を抑えるために、ぎゅうっと唇を噛んで俯く。
(大切なのは、優斗がいまどうしたいか、だよ)
ふんわりした柔らかい声が、聞こえきたような気がした。よし、と気合を入れて、門に手をかける。
「優斗?何してるんだ?」
背後から急に声をかけられ、俺は飛び上らんばかりに驚いた。慌てて振り返ると、酒屋の箱を持った父さんが、俺を訝しげに見つめていた。
「塾はどうした?どこか身体でも…」
「父さん!!」
父さんの言葉を遮って、叫ぶように声を上げる。父さんはびっくりして、拍子にずりおちた眼鏡をあげる。
「………俺、ほんとは、公立に、行きたくない。………武蔵野学院に行きたいんだ」
微妙に声が震える。だけど、父さんから目線を外さずに、言葉を続ける。
「武蔵野学院で、サッカーしたい」
途端に胸が熱くなる。やっと、心の中の本棚から、探し求めていた本を引き出したような、そんな気持ちになった。
「どうしても…行きたい。だから、受けさせてくださいっ」
そこまで言いきって、頭を下げた。片手に持っている武蔵野学院の願書一式を、握りしめる。
「……優斗」
穏やかな、父さんの声が降ってくる。そして、髪を撫でる大きな手の感触が伝わった。
「優斗、やっと、言ってくれたな」
「…………え?」
「彩菜がな、ずうっと言っていたんだ。優斗は本当は公立にいきたくないんだ、サッカーがしたいんだって。しかし小さい時から姉を優先して自分を抑えることが当たり前になってたから、それが言えないんだと」
目を細めた父さんの瞳は、少し濡れていた。俺はハッとして俯く。
「…そんなこと」
「………はじめて、言ってくれたな。優斗の気持ちを」
「…!」
父さんは一度息をのんでから、小さく笑い、続ける。
「確かに、私立に行かす余裕はうちにはない。…が、特待生試験を受ける気はないか?優斗」
「とく、たいせい…?」
俺が意味を計りしれないで反復すると、父さんは俺の肩をたたいた。
「父さんだって、色々調べてたんだぞ?…試験に受かれば、三年間学費免除の待遇を受けられる。その代わり、そんじょそこらの公立の試験とは段違いに難しいぞ?」
「……」
「どうする?優斗」
そんなの、決まっている。
俺は息を吸い込んで、真っすぐ父さんを見つめて、きっぱりと言葉を紡いだ。
「絶対、合格する」
「男に二言はないな?」
「うん」
頷いて、笑う。心の底から、体中が、嬉しいと叫んでいる。久しぶりだった。こんな風に笑うのは。
「さあ、入ろう。彩菜の料理が待ってる」
家に入ろうとする父さんの背中を追いかけようとして、俺は立ち止まった。何かが、胸をよぎる。
(優斗)
セラの声だ。まだ夕方だ。夜になって帰ってこなければ迎えに行けばいい。
(――違う。そんなことじゃない)
何かが引っ掛かっている。セラの姿を思い出した。天使ではなく、人間の姿になっていた。
「…?!」
「おい優斗っ!?」
「父さんごめんっちょっと出かけてくるっ、これ頼むねっ」
願書一式を押し付け、駆け出す。後ろで父さんが何かを叫んでいたが、聞こえないふりをした。頭の中は、さっき見たセラの笑顔でいっぱいになっていた。
(そうだなあ…たとえば人身とったりしたら強制的に消されちゃう)
消える、ということは、人間でいう死ぬということではないか。俺は、舌打ちをした。
「あの…馬鹿、天使…!!」
いつもの公園に辿り着く。セラは、ベンチの上で噴水をぼんやりと見ていた。傍に駆け寄ると、息を切らす俺を、ぼんやりと見上げて、首をかしげた。
「何やってるの?」
「…おま…」
「……あらら、きづいちゃった?」
セラは瞬き一つで天使の姿に戻る。俺は絶句した。片翼の羽が、薄らと透け始めている。
「セラ…?なんで、だよ…」
「あ、気にしないで?だーいじょうぶ。神様のとこに、帰るだけ。体がきえるだけだか…」
無意識に腕を伸ばし、俺はセラを抱きしめていた。セラ小さく悲鳴を上げる。
「ゆ、ゆう…」
抱きしめて、始めて気付いた。セラの身体の温もりはゆっくりとおぼろげになっているのだ。
信じたくなくて、受け入れたくなくて、俺は無我夢中でセラの身体をかき抱いた。
「セラ、消えるなっ!」
「優斗、おねがい、き…て…」
声さえも、おぼろげになってく。俺は愕然とした。
「いやだっセラ、消えるな!ここにいろっ」
その時、抱きしめられるままだったセラが突然俺を突き飛ばす。触れられないように空中に浮いて、セラは泣き笑いのような顔を浮かべた。
「優斗、弱虫なんだからなあ。私は大丈夫だってば」
そう言うセラの手は小刻みに震えていた。
「セラ…っ」
思わず右手を伸ばすが、もうセラの身体に触れることはできなかった。セラは目を細めて、翼をはためかせて俺に近づく。
ふわり、と唇に何かが触れる。目の前には目を閉じたセラの長いまつげがあった。そこから白い涙が一筋こぼれる。
俺から顔を離すと、セラは微笑んだ。
「ゆ…と…………が……とう」
セラの輪郭がゆらいだと思った瞬間、ほの白い光が霧散した。思わず左腕で顔を庇う。
気づけばセラの姿はかき消えていた。
「せ…ら…?」
周りを見渡せば、すっかり夜の帳が訪れた公園は、静まり返っていた。俺は、伸ばしていた右手をぼんやりと見つめた。
(――ありがとう)
「どうして、ありがとうなんて……っ」
がくり、と膝をつける。いまさら涙がこぼれて、それは止まらなくなった。どうして涙が流れるのが、どうしてこんなにセラに触れたいと思うのか分からない。だけど、涙が、止まらない。
「…なんで、なんでだよっ…っセラ――――ッ!!」