Heavenly Days

Chapter5  大切なもの



 物心がついたとき、もうすでに母さんは亡くなっていた。別に寂しいとは感じなかった。父さんは実直で尊敬できる人だし、なにより彩菜が母親代わりになって俺を可愛がってくれたから。一歳しか離れていないけれど、彩菜はとても賢くて、優しくて、大切な姉だった。
 その彩菜が小学校六年生で心臓疾患で倒れた時、手術をしても助からない可能性が高いと言われ、すごく辛かった。

 ◇ ◇

「優斗は、公立志望か…助かるな」
 父さんは穏やかに微笑んで、俺の進路希望書をテーブルに置いた。
「うん頑張るよ。バイトもするし」
「すまないな…」
 その言葉に首を振って、返し、馬鹿みたいにVサインなんかして、俺は部屋に帰った。

 彩菜の手術代はすごく高くて、普通のサラリーマンの父さんが払えるような額じゃなかった。親類の何人かに借りて、どうにか手術を行えた。そして、彩菜には学校に通えなかった分、せめて充実した学園生活を送ってほしいと都内で有名な東間学院に入学させた。俺も心の底から賛成した。
 父さんは実直な人だから、少しずつお金を返している。そんな家に、私立を二人行かせる余裕なんてないことは、俺も分かっているんだ。

 なのに。

 机の上に積み上げてあるパンフレットの山をかきわけて、その中の一冊を拾い上げる。白い校舎と、広いグラウンドが映っていた。大きく『武蔵野学院』とプリントしてある。東間学院には及ばないまでも、優秀な生徒が集まる学校だ。中一の時、武蔵野学院のサッカー部の全国試合を見たときの興奮は、まだはっきりと胸に焼き付いている。
 そして、進路面談の時、サッカー部の副顧問でもある担任から、単刀直入に聞かれた。
(―今村、本当に武蔵野学院に行く気はないのか)
 何も答えられない俺に、担任は小さな紙切れを俺に手渡した。武蔵野学院までの、地図だった。
 中2で部活はやめているから、スポーツ推薦はとれるはずもない。かといって、一般で受けて、たとえ合格したとしても、俺の家にマンモス校の学費を払えるほどの余裕はないのだ。わかっている。わかっているのに。
 ぐしゃり、とパンフレットを握りつぶした。
「あの、馬鹿天使…っ」
 あいつがきてから何もかもめちゃくちゃに巡るようになった。遠慮なんかまったくなしに心の中にずかずか入ってくるし、おせっかいだし、わがままだし、すぐ泣く……
『――優斗なんて、もう知らない!!』
 唇をかみしめる。いつの間にか頭の中はあのときのセラの泣き顔でいっぱいになっていた。冷静になって考えれば、ひどいことを言ってしまったかも、しれない。
「……」
(…あんな奴の心配してるなんて、俺どうかしてる…)
 時計を見上げると、もう三時を過ぎていた。
「やっべ塾…!」
 慌てて立ち上がり、チェックのシャツをとった。それを羽織って、参考書のつまった鞄を取り、部屋のドアを開ける。

◇ ◇ ◇

 ぎらぎらとコンクリートを照らす太陽を見上げる。商店街を抜ける頃には身体中に汗をかいてしまった。それでも走ってに駅に向かう。通っている学習塾は隣駅にあるのだ。
(かんっぜんに遅刻だ…)
 げんなりしつつ、駅に通じる大通りの交差点で立ち止まった。
 と、その時。

「離してってばっ!!」
 高い声が雑踏のさざ波を縫って俺の耳に届く。それは、まぎれもない、あのおせっかい天使の声だ。
(……暑さで頭イカれたのか?)
 そういえばろくに水も飲まないで出てきてしまった。ああ熱中症になりかけているのかもな。
 現実逃避しようとした俺の目に入ってきたのは、歩道を渡ってすぐにある駅前の街路樹の下で、数人の男子高校生に絡まれているセラの姿だった。
 背中に翼はない。水色のふわふわしたワンピースに、白いサンダル。ぴょんぴょんはねている髪は二つに結わえられている。だが、見間違うはずもない。
「セ………ラ…?」
 セラの腕には、茶色い大きな封筒があった。大事そうに抱えるそれを、高校生たちがからかいながら奪おうとする。それを必死で阻止しようとしているのだ。
 そのうち、一人がセラの腕をつかみ上げた。その拍子に頭の中でなにかがぶちんと切れる音がした。同時に、信号が赤に変わる。
 全力で走って、街路樹に向かった。セラを囲んでいるのは三人。こちらに背を向けている一人に、浩二から教わった下段回し蹴りをおみまいする。不意打ちの攻撃に、たやすくそいつの身体が崩れ、唖然としているセラの姿が現れた。腕を掴んでいるやつのみぞおちに蹴りを入れ、有無を言わさずセラを引っ張って全力で駆け出した。
「ま、まって…っゆ、」
「うるさいっ黙って走れっ!!」
「お、おい待てよ…っ!このガキ!!」
 仲間の内二人が地面に倒れこんだのをかろうじて無事だった一人が助け起こしながら怒鳴った。それを背中で受け止めながら、セラの手を強く握って、ひたすら走った。

 走って走って、もう限界だと感じて辺りを見回せば、セラと初めて出逢った公園についていた。後ろで荒い呼吸をしているセラを引っ張り、木陰につれていく。一際大きな楠の下に座らせると、セラはほうっと息をついた。
「この馬鹿っあんなとこで、お前なにやってたんだよ!!」
 セラははっと顔をあげて、大きく深呼吸をした。セラは暑さのせいか頬は上気して首筋まで真っ赤になっている。
「……願書、とりにいってたの」
「え?」
 差し出された茶色い封筒を、思わず受け取る。そこには『武蔵野学院・願書一式』と書かれていた。
 目を見開いて、セラを見る。あまりの驚きに、二の句が告げなくなった。セラは畳みかけるように口を切る。
「ねえ優斗、何もしないであきらめるの?本当は行きたくてたまらないんでしょう?私、知ってるよ。優斗が校庭でサッカーやってる子みてるの、お姉さんのこととても大切に思って、だから我慢してる気持ちも知ってる。…だけど」
 そこで一旦切り、セラは一度俯いた。風が吹く。セラの髪が揺れる。俺のシャツが風をはらんでばたばたとはためいた。
「………いましたいことをする努力しなきゃ、絶対に後悔するのよ」
 顔をあげたセラは、驚くほど真剣な表情をしていた。笑い顔でも、泣き顔でも、怒った顔でもない。俺は、真っすぐに見つめてくるセラの視線を、外すことはできなかった。
 どうにかして、言葉を探す。
「…なんで、お前にそんなことわかるんだよ」
 そう返すと、セラは一瞬、けぶるような微笑みを浮かべた。
「いまやらなきゃ、ダメ。優斗」
「でも」
「でもじゃない。大切なのは、優斗がいまどうしたいか、だよ」
 そう言って、セラはにっこり笑う。有無を言わさない声音だ。

 そして。

 俺は、唇をかみしめて、小さくうなずいたのだった。





 
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