ヒメサマのい・う・と・お・り

第6話 片腕の魔道技師



「危なかったあ…」
 裏庭まで逃げてきて、エルザはようやく一息吐いた。黒装束の少年の雰囲気に巻かれて、警戒心が疎かになっていたのか。
 ほとんど使われていない、暗い納屋の裏まで逃げ込んで、それでも追って来た衛兵の目を避けて積み上げてあった丸太から屋根に上がった。
 雨に晒された屋根は幾分、腐食していて危なっかしかったがバランスを取って堪える。
 衛兵はしばらく周囲をうろうろしていたが、そのうち諦めたのか別の方向へ去っていった。
 ――いけないいけない。
 今日はぼんやりとしているわけにいかないのだ。油断すればすぐに父に捕まってしまう。今日だけじゃない、こんなのが三日間も続くのだ。考えるだけで気分が萎えてくる。
「おい……」
 確かに自分は第一王位継承者。いずれは結婚しなければならないし、いまの大陸情勢というものを把握している。
 けれど、大人しく結婚をするというのも考えられない。大体、エルザは男というものをよく知らないのだ。
 先ほど会った青年の前でも、少年の前でも。どうにもこうにもうまく話せなかった。いつもソウガとともにいるサクラだったらどうなのだろうか。
「…変わらないわよね。ソウガさん男として見られてないみたいだし」
 それに、シュアラの国は男女間の仲身分が上がるごとに厳しい掟に縛られるのだ。サクラとて自分と変わらないだろう。
 いまさらながら、男性のことを聞く相手がいないなんてなんてことだろう。
「おい……ッ!」
 こんな状態で、生涯を共にしていく相手を選ぶだなんて、そんなこと……
「おい、そこの女ッ!」
「えっ?!」
 エルザは急にどなられて身体を飛び上らせた。その拍子に、

 ばきっ。

「あ」
 嫌な音が響いた。
「きゃああああああッ!?」
 一瞬の浮遊感の後、急なスピードをつけて、彼女の身体はぼろぼろの屋根の上から落下を始める。エルザはぎゅ、と目を瞑った。

 どしん!

 衝撃は直に来た。それでも、納屋の背丈がそれほど高くなかったことと、短い草の下生えが柔らかかったこととで、いくらかはましだったのかもしれない。先についたお尻がずきずきと痛んでくる。連鎖的に腰から背中までがびりびりと痺れたような痛みを訴えた。
 おまけに、
「ッ!」
 無意識のうちに動かそうとした右足が、激痛を放った。薄く目を開くと、靴下から覗く右の足首が赤く腫れている。ずきずきと内側から刃物を立てられているような、耐えがたい痛みが走っていた。
 全身から冷や汗が噴き出した。
 エルザは青ざめた。捻挫だろうか。四六時中こっそり動き回ってることが多い自分は傷をこさえるのが得意だ。しかし、この怪我は最近の中で一番多い。
 簡単には動けない。もし、衛兵に見つかったら、無理やり舞踏会に連れて行かされて―。
「……ちッ。妙なヤツが天井にいやがると思ったら、落ちて泣くのかよ。トロくさいガキだな」
「?」
 エルザは涙目の目元を擦って、慌てて顔を上げた。そうだ、さっき声が聞こえた。それでバランスを崩したんだ。
 きょろきょろと、周囲を見渡す……必要もなかった。
 その低いテノールの声の持ち主は、エルザの視線の先で納屋の壁に寄りかかって悠々と分厚い本を広げていたのだ。
 一瞬、痛みを忘れてしまった。
 納屋の周りには、背の高い木が生えている。その梢が陽光を遮っているのだが、その梢が切り取りきれなかった僅かな光が、その男の髪を照らしていた。柔らかな陽光に照らされた部分は金色にも見えるし、暗い影になっている部分は銀にも見える。ナイフで適当に切っているのか、粗悪な切り方の髪は余計に光を反射させていた。
 肌も肌で、頬も膝に置いた本のページを捲る手も、病的なまでに白かった。ただ唯一、心底、鬱陶しげにこちらを睨む瞳だけがその奥の血液の色をそのまま映し出していた。
 話には聞いたことがあった――白子[アルビノ]、というやつだ。
 白いぞろりとした装束には、エルザには分からない紋様が幾つも描かれている。細身の銀の杖を担ぐように右腕で支えながら、器用に片手で本を読んでいた。
 かつん、と杖で石を叩いて男が立ち上がるのを見て、エルザはようやく我に返る。
「……急に空が翳ったんで何事かと思ったら、衛兵ががちゃがちゃとうるせーし。この国じゃ、ゆっくり読書もさせてもらねーってのか。嫌な国だな」
「は…?」
 欠伸を噛み殺しながら、いきなりとんでもないことを言う。
 男の歳は二十代前半程度に見える。以前、城内で見かけた覚えもない。すると、この男も、婿候補とやらの一人なんだろうか。でも、それならば、今の暴言は一体何なのだ。
「さすがは一人娘のために男を集めるだなんて、随分と下らねぇことをやる王が納める国だぜ。メイド一人とってもこの様だ。さっさと潰れるのが関の山だな」
「違うっ!あなた…いくら客人といえど、そんなこと言うなんて無礼きわまりないわよっ!」
 エルザは思わず声を張り上げる。しまった、と思ったが肩を震わせるほどの怒りはそう簡単に止まってくれない。
 男は不快そうにへたり込んだままのエルザを見た。射るような朱色の瞳に、い殺されるような感覚を覚えた。だが、堪える。エルザとて、カルミノの第一王女だ。父への侮辱は国への侮辱、ひいてはエルザへの侮辱。
「お父さ…いえ、カルミノ王は素晴らしい方だわ! それは、ちょっとは過保護なところもあるけれど、でも、いつも人民のことを考えてる…いえ、いらっしゃいます!」
 途中でいまの自分はメイドだということに気付き、エルザは敬語に直した。
「……ふぅん?」
「…第一、貴方はカルミノ王のことをどれだけご存知なのですかッ!? 人をよく知りもしないで、そんなことを言わないでくださいッ!」
「……」
 男は眉を潜めてエルザを見ていた。ぶるぶると震えながら、エルザはその視線に、睨み返す。
 怖い。先ほどの青年や少年とは比べ物にならないほど。得体の知れない男だ。どうして人のことをそこまで言えるというのか。失礼、不敬にも程がある。
 父親が侮辱された。その悔しさが恐怖心を押しやって、いままでの出来事でなりをひそめていた負けず嫌いなエルザの性を目覚めさせ、奮い立たせたのだった。
 本と杖とを担いで、しばらく観察するようにエルザを見ていた男は、ふと気が付いたように彼女が抑える足首に視線を移動する。
「……ふん」
 それは突っぱねるというよりは、些か毒気が抜けたような溜め息だった。男はざくざくと下生えを踏みつけながら、エルザの方へとやってくる。
 さすがに固く目を閉じて俯く。逃げようとしても、ぎりぎりと痛む足がすんなりと動いてくれない。
 かちゃり、と音がして肩が震えた。何をされるのか見当がつかない。しばらくの間、小さく震えていると、不意に小さな声が耳をついた。
「……我望む、癒し洗うは汚れし者の贖罪の聖痕、慈しめリザレクション」
 低い声がそう紡ぐと同時に、温かな感覚がエルザの身体を覆う。何故か身体が軽くなるような気分だった。不思議に思って、足を動かすと、はっとする。
 痛みがない。足だけではなく、腰からもすっきりと痛みが引いている。
 目を開くと、目の前に男の銀の杖についていた赤い宝石があった。そこから光が漏れて、エルザの体を覆っていたのだ。
 かしゃん、という音と共に杖が引かれる。そのときにはもう、全身から先ほどまでエルザを苛んでいた痛みは完全に消えていた。見ると腫れていた足も一瞬で治っている。
 目を白黒させているエルザを、男は、今度はさも面白そうに見下ろしていた。
「大分、骨のあることを言うじゃねぇか。そいつはお前のなってない礼儀に対するご褒美だ」
 ふん、と鼻を鳴らしながらそう言い放つ。
 そのときになってエルザは気づいた。
 ―― ……この人。
 杖と本とを片手で支えていると思ったら、もう片方の左の袖が不自然にだらん、と垂れている。わざと腕を抜いているようにも見えない。
 つい、まじまじと見てしまっているとその視線に気がついた男が、再び不機嫌そうに表情を歪めた。慌てて視線を逸らす。
 その彼女をもう一度、鼻で笑うと男は唐突に踵を返した。
「ま、待ってください!」
「あん?」
 スカートの裾を持ち上げて立ち上がる。慌てていて、少々噛んでしまった。 それでもエルザは頭を下げた。
「ありがとうございます」
「……」
 男は一瞬、朱の双眼を見開いた。だが、すぐに薄い唇を笑みの形に吊り上げて、嘲るように置き土産を残す。
「……案外、素直なところもあるじゃねぇか。けどな、そのトシで柄物の下着はいくら何でもガキ臭いぜ。じゃあな」
 そのまますたすたと裏庭を横切って去っていく。きょとん、としていたエルザが、その言葉の意味に気が付いて真っ赤な面でスカートを抑えた頃には、男の姿はもうどこにも見えなかった。






 
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