不散の乙女


 軍衣のまま西殿(にしどの)に戻ると、乳母や侍従は揃ってため息をついた。
「主上、南殿(なでん)でなぜお召替えをなさらなかったのです」
 若い帝はまばたきをして肩をすくめた。
「着慣れてしまうと動きやすい。はやく藤壺に行きたいのだ。見逃しておくれ」
「なりません。中宮さまは今――主上!」
 帝の心はたった一人の妃のもとへ飛んでいた。入内、立后と華々しい行事を済ませはしたものの、日々の議会や増えてきた軍事演習上覧に忙殺され、ふたりきりの時間が作れなかった。ひと月。ひと月もだ。
 しびれを切らして「今日の午後に一刻だけ私の時間を貰えないか」と古馴染みの将軍に伝えれば、逆に午後まるまる全てやるから顔を見せてこいと怒られてしまった。
 息せき切って辿り着いた藤壺には、はたして咲きかけの蕾を思わせる少女が居た。
 何やら難しい顔つきで目の前の女官と話し込んでいるようだが、そのようなことは些細なことだった。
「藤壺」
 呼びかければ、少女の瞳が輝いた。
「おかみ……?」
「こんにちは。ご機嫌はいかがかな」
 乙女の手を取って微笑めば、中宮は口を薄く開いたまま固まっていた。すぐには信じられない、といった表情が、どこかくすぐったい。
 外での公務は嫌ではないが、華がない。もっというとむさ苦しい。男に囲まれて何日も過ごしていると心が荒んでしまう。
「南殿の桜が見頃だ。東殿(ひがしどの)の学問所に良いところがある。一緒に」
「いけません。中宮さまは今お忙しいのです」
 せっかくのどかな心地になりかけた所へ、声が割って入る。帝は少しだけ眉をひそめて声の主をみた。
「まだ居たのか。典侍(てんじ)」
 典侍<女官長>は顔をひきつらせる。小首を傾げると、濃い白粉に青筋が走った。
「それではあまりにも典侍に失礼かと。ついでにわたくしもおりますよ。ご機嫌麗しいようでなによりです。我が君」
 軽やかに入ってきた宰相がにっこり笑う。帝は更に気分が荒んだ。万が一にもこの不忠な輩に中宮の顔が見られてはならない。半ば巻き上げられた御簾の前に立ち、威厳たっぷりに腕を組んで見せた。
「氷雨(ひさめ)、そなたは枕も上がらないほど船酔いがひどかったのではないのか」
「我が君。お答えいたします。船酔いというものは船から降りてしまえば治るものです」
 氷雨は胸に手を当て、神妙な表情で続けた。
「お寂しい思いをさせて申し訳ありません」
「それは、私が今から藤壺にかけようとおもっていた言葉だ」
 首のあたりに鳥肌が立つのを防ぎきれず、おぞましいものを見る目で睨んでも、宰相はけろっとしている。更に憎々しい気持ちまで加わって、腹の底がむかむかしてきた。船が出航した途端、船室ですやすやと眠って居たのはどこのどいつだ。
 成り行きを見守る女官達のささやき声も耳についてどうしようもない。帝は、一息置いてからはっきりと言い放つ。
「中宮と二人で気散じにいく。みな下がれ」
 古の御代みよのように、後生大事に皇宮の中で浄きよらかな生活を送る帝であったならこんなことは言い出さなかったろう。外は穢れだらけで、帝のおわす皇宮はこの世で最も尊い場所でなくてはならない。
 しかし、それはほんの少し前までのこと。時流は変わった。自分は、皇宮に殆どいない帝である。外に出て、毎日開かれる宮廷会議を纏め、陸や海の軍事演習に参加する。
 数多の判断を下すには、他の意見をよく聞かねばならない。人形のように動かず、騒がず、麗しく微笑み「よきにはからえ」と言っていても、国政は回らない。それはもう、皇太孫であった時代から身に染みている。
 辛酸を舐めた皇子時代の経験と、准母の影響もあり、いつの間にか自分の意見をはっきり言うようになっていた。感情も、場をわきまえる程度で、隠さない。ここは家だ。素直になって何が悪い。
 未だぐずぐずしている典侍や数人の内侍からもの言いたげな視線が寄越される。若き帝は、深く息を吸い込んで声を張った。
「あっちいけ」
 視界の端で氷雨が笑いを殺す涙をぬぐっていた。女官達は放たれた俗語の意味を図りかねてぽかんとしている。
 ここでようやく氷雨が軽く手を叩いた。
「はいはい。大人気ないのはいつものことですが、主上はお疲れのようです。后宮きさいのみやさまにお任せして散った散った」
 一言余計だと思ったけれど、二十四になる男の言動としては、確かに幼すぎたかもしれない。針の先ぐらい反省した。
 最後まで居残っていた典侍を言いくるめたあと、氷雨は微笑みながら振り返る。
「御影に翳(さしば)を」
 ――人≠ヘ遠ざけますが、影の者はお付けしますよ。
 それは我慢してくださいねと声なき声が念を押す。帝は軽く頷いた。
 要は中宮が正直な気持ちで話せる場になりさえすれば良いのだ。見えない影ならば、問題ない。氷雨は万事心得たとばかりに頭を下げる。そうして、気まぐれな風とともに音もなく消えた。
「軍衣のままでごめん」
 御簾の内に戻り、帝は心を込めて妻に微笑みかけた。中宮は固まったまま、どこか落ち着かない様子で応えた。
「いえ……お勇ましい、です……。けれど、主上」
 帝は一転して拗ねた表情を浮かべた。
「真名を呼んで誉めてほしい」
「いけません。誰が聞いているか、」
「千幸(ちゆき)」
 囁けば、ぱっと妃の頬に朱がさす。みるみるうちに真っ赤になって、ついには袖で顔を隠してしまった。
 いきなり呼ばないでください。そうたしなめる声は震えている。
「……嫌だった?」
「ちが……」
 慌てて袖を下ろした千幸は、悪戯めいた笑みに出迎えられる。十四になったばかりの少女おとめにはいささか過ぎた色気だ。
「お、主上」
 扇を広げて隠れようとする千幸の動きを、帝はやんわり止めた。そうして小首を傾げる。とても幼い仕草だった。
「何が違うの?」
「わざとですね。意地悪な方っ」
 おやおやと帝はおいらかに笑む。白く小さな手をふたつとも包み込んで真正面から澄んだ瞳をとらえた。
「分からないよ。きちんと君から理由が聞きたいな」
 ちゆき、とまた呼ばれて、少女の肩が飛び上がる。千幸は深呼吸を繰り返してから背筋を伸ばした。帝のキサキが、すぐに動揺してしまうのはいけないことだ。
「……真名、というのは」
「うん」
「そもそも、気軽に呼び合うことは、しないものです」
「そうだね。だから、夫婦ふたりだけの秘密だ」
 決死の反抗も、花の如き笑みで吹き散らされてしまう。千幸は沸き上がる羞恥で頭がくらくらしてきてしまったが、唇を真一文字にしてきっと夫を睨んだ。
「……真名を交わすのは、夜だけのものです」
「これは大胆なお誘いだな」
「――雪紫(ゆきし)さま!」
 事も無げに返されて、千幸はとうとう大声を上げてしまった。雪紫は底抜けにあどけない笑みを浮かべる。
「覚えていてくれた」
 やりこめられたことが悔しくて、千幸は桜桃の唇を尖らせながら紡いだ。
「ことならば咲かずやはあらぬ桜花さくらばな」
 あれ、と雪紫の眉が下がる。桜など咲かなくて良いと詠った少女は頬を染めてぷいっと顔を背ける。
「かようにしづ心なき方なんて、わたくしもう存じ上げません」
「拗ねた貴女も可愛らしいね。国中に咲いた桜も、この愛らしさにはかなうまい」
 泥に灸。糠に釘。何の手応えもなく、効き目もみえない問答に、千幸は頭が痛くなってきた。
 帝がおいらかな気性であるならば、中宮である自分がしっかりしなければならない。檜扇を閉じて、夫の正面に端座する。
「わたくしは、少しも自分のお身体を労わって下さらない貴方に、とても腹を立てています」
 未だあどけなさを残す眉根を寄せて、千幸は雪紫を睨む。雪紫の手のひらは、荒れていた。手甲も傷だらけだ。
「雪紫さまは、お身体が強くないのです。帰ってこられたのなら、休息を。将軍たちの十分の一以下も体力がないことを、ご自覚なさってください」
「い、いや二割ぐらいはあるんじゃないかなあ……。むしろ生まれも育ちも軍人の屈強な男と比べたら、氷雨だってか弱い部類に入るよ?」
 確かに雪紫は、体力や体格といった点について、あまり自信がなかった。けれど妻に指摘されるのは、なんとも物悲しい。そのせいで語尾がしぼんでしまい、千幸は冷ややかに言葉を返す。
「主上が倒れた際、その宰相が運んでおられますが」
 軽々と俵担ぎされて運ばれる光景が浮かんで、雪紫はあまりの情けなさに顔を覆う。
 あの運ばれ方は、胸と腹を圧迫されるので、吐き気は増長するし目眩はもっとひどくなるのだ。氷雨は万事やる気がないので、休む口実を虎視眈々と狙っている節がある。甲板の上でふらついただけで「いけません。休みましょう! なで肩主上はお昼寝の時間です!」と、絶妙な拍子に現れた。将軍達は突っ込みもいれずに腹を抱えて笑っている。自称・船酔いに俵担ぎされる無様さといったらない。
「……貴女にまで骨弱貧弱王などと呼ばれたら立ち直れない……」
 そのまま雪紫は肩を落として俯いてしまう。さながら路傍に捨てられた仔猫のようで、千幸ははっと我に返る。
 またやってしまった。どうして自分はこう、可愛げのない物言いしかできないのだろう。疲れて帰ってきた夫が自分のご機嫌窺いにわざわざ足を運んでくれたのに、その優しさを無下にするようなことばかり。
 悄然とした夫の姿に哀れを誘われ、胸が痛んでしまう。
「ごめんなさい。わたくしが言いすぎました」
「貴女の言っていることは正しいよ……。どうぞ好きなように呼んでくれてかまわない」
「呼びません。だから、そう落ち込まないでくださいませ」
「……桜、一緒に見てくれる?」
「わたくしでよろしければ。……あ」
 しまったと思った時にはもう遅い。さめざめとした空気はどこへやら、雪紫は期待の眼差しを向けた。極上の紫に金の虹彩。この世にふたつとない色に囚われる。
 優雅に手を差し伸べられ、どうしようもなく高鳴る胸の音が聞こえないよう、千幸は深呼吸をしてから手を重ねた。

  ※※※

 御学問所の花は、雪の曙のように咲き連なっていた。
 軽やかに舞う淡紅の影、指をすり抜けていく花の雨の儚さ。まるで桜が、天から降り注ぐよう。美しい彩りを咲かせる花の枝は、地につくほど長い。
 千幸はすっかり言葉を失ったまま美しい紅枝垂れを見上げていた。
 実家さとである左大臣家にも桜はあったけれど、御簾越しに見るのも難しかった。妃候補の自分を、万が一にも人目にさらさぬよう、兄が細心の注意を払っていたからだ。
 手折られた枝を飾り、古に編まれた春の歌をひたすらにそらんじる。それが、左大臣家での春の過ごし方だった。
 古人の多くが花の開く時を待ち焦がれ、また、花が散ることを惜しんだ。人の世の無常さ、人の心の移ろい。まるで糸巻きのように繰り返し同じ花に絡めて詠んでいる。
 諳んじることに必死だったあの時は「なんと云う月並みな」とまで思ったものだ。
 思い返せば、素気のないことを感じていたものだと、千幸は自省した。
 今まさに、桜と初めての触れ合いを果たして、古人と同じ愛惜が身に染みる。
 胸にこみ上げる切なさ。誰かを、どこかを、忘れているような。それでいて、やっと巡り逢えたと歓喜に震えるこの心地。これはきっと、古の祖おやから受け継がれた感覚なのだろう。
「貴女は、そのようにお泣きになるのだね」
 薄紅に染まった夢が、泡のように消える。傍らに立つ雪紫は、静かに笑って千幸の頬に触れた。すらりとした指先が目元をぬぐう。その時、やっと彼女は頬が濡れていることに気付いた。
「ゆきしさま」
 雪紫の手のひらが温かい。羽のように軽い口づけが、額にかすかな熱を残す。
「ひと月の間、後宮を預かってくれてありがとう」
「え……」
 呆けた声が出て、千幸は震える手で口を隠す。焦れば焦るほど喉がつまってしまった。
 背を伸ばして、はっきりと応えなくては。後宮を守るのはキサキとして当然の務めだ。それを誉めて頂いたのだから、心を惑わすのはおかしい。
 今後も自分を頼って頂き、夫がつつがなく公務に励めるように、何のわだかまりもなく外へ赴けるように振舞わなければならない。
「お褒めいただき、ありがとうございます。あの……此度は、いつまで……」
「……明日」
 雪紫は、少しためらってから応えた。
 明日。千幸はささやき返す。藤壺を出る時、八つ時の鐘が、鳴ってはいなかったか。ならば、こうして逢って、話す時間は、あとわずかしかない。
「だから今宵は藤壺に」
「……っ、なりません」
 雪紫の手から逃れるように身をひいて、身体をしゃんとさせた。耳の奥に典侍の声が木霊する。
『主上は、天地をあまねく照らす皇祖神の血筋を継ぐ尊いお方。この国の安寧のために、一刻も早く皇子を作っていただかねば』
 けれど千幸はまだ十四歳である。閨を共にするのは早い。子を授かるためには時が必要だ。
 後宮は、そうのんびりと待っていられない。帝の皇統を次代に繋げるために集められたのは、左大臣家より格下の身分の女人たちだった。
「主上も分かっておられるはずです。後宮に戻られた夜は……」
「……貴女は良いの?」
 雪紫の低い声に、千幸は無理やり顔を上げて凛と言い放った。
「なにより、主上がお寛ぎになるためです」
「表御座所(おもてござしょ)に、かわるがわる内侍ないし達が世話を焼きにくることが、私の寛ぎだと?」
「……表御座所?」
 無意識に聞き返してしまった。雪紫は物騒な目つきで千幸を見下ろしている。表御座所は昼の政務を執り行う場所だ。
「私があまりにも忙しそうだからと、侍従達が後宮に戻らずとも良いように私室を作ったんだよ。そこに、連日連夜内侍が押しかけてくる」
 千幸は肩を強張らせる。抉られたように痛む胸の内を隠すように袷を握りしめた。
「三日続けて閉めだして、くたくただよ。四日目からは海上にいたし、知らないけれど。けれど、貴女はご存知ないみたいだね」
「……わたくしは、まだ、お世継ぎをもうけられません……」
 声が震えないように必死で、目線が下がる。
 何故このように動揺しているのだろう。典侍の言葉の意味を、もう少し深く考えれば、分かることだった。それが、少し遅れただけのこと。
「かまわないよ。同母の弟もいることだし。そんなことより」
 一歩、雪紫がこちらに歩み寄ると、木の下に敷き詰められた花びらがかすかな音をたてた。
「泣くほど嫌なことを口に出さない方が良い。そう自分を傷つけるものではないよ」
「え……」
 先ほど、涙は拭われたはず。のろのろと自分の頬に触れて千幸はあっと声をあげてしまった。あとからあとからあふれた涙が、指先を弾いて白く光る。
 慌てている間に頬をそうっと包みこまれて、どきりと胸が跳ねた。
「こ、れは……さくら、桜の見事さに、つい」
「嘘」
「うそなんか……っ?」
 雪紫は、千幸を胸の中に引き寄せた。強く抱きしめられる。肩口に顔を押し付けられて、痛いほどだった。
 ぴんと身体の芯に張った線が、脆くなる。揺れに揺れて、形を結ばない。そのまま、音を立てて、それは切れてしまった。
 涙を堪え切れず、しゃくりあげる妻の髪を梳きながら、雪紫はゆったりと言葉をつむいだ。
「……貴女が入内したての頃、私はすぐに紅磨野(くまの)に行かなければならなくて」
「せめてもの名残と、笛を吹いたのだけれど。その時貴女は顔をずうっと背けていたね。覚えている?」
「…………あれ、は」
「笛は聴くもので、見るすべはない。だったかな」
 それは彼女のなかで、消したい過去のひとつである。左大臣家の一の姫。今上帝唯一の妃にして、将来の国母。
 けれど、十三歳の少女にとって、貴人たちから向けられる様々な思惑、親族からの期待は、余りにも重すぎた。
 妃にはなれても、妻としての務めは果たせない。それは誰の目にも明らかで。押し寄せる不安に、押しつぶされそうだった。背の君となった雪紫が、十も年上であることも、焦りを一層掻き立てる。
 雅を解さぬ子どもと侮られないよう。機知に富んだ返しをしなければ。彼女の緊張をほぐすため、なにより新妻を置いていかなければならないことを申し訳なく考え、僅かな時間を割いて心を砕いてくれた夫。それに対して童のような屁理屈で返してしまったのだ。
「その時の貴女の横顔を眺めていて、必ず帰ってこなければと思ったんだよ」
 思いも寄らない言葉が降ってきて、千幸は零れる涙をそのままに顔を上げた。雪紫は穏やかに微笑んでいる。
「どうして、そうなるのですか……」
「年の割にしっかりした人だ。貴女の兄君からはそう聞いていたのだけれど」
 そう前置きしてから、くすりと小さく笑う。
「こんなに不器用で、それでいて、いじらしい方は他にいないよ」
 放っておけるわけがないじゃないか。雪紫の声は、花びらのように千幸の心に温かく降り注ぐ。
「……必ず、ですか……」
「ん?」
 抱きしめられるがままだった千幸が、身じろぎをした。おそるおそる細い腕を雪紫の背中に回す。
「……必ず、帰ってきてくださいますか」
「うん。千幸が、私の帰る場所だ」
 あたたかな春の日差し、舞い散る花びらのなかで囁かれた言葉。この時を閉じ込めてしまいたい。けれどそれはかなわない。ならば、決して忘れまい。この白い桜の季節が、遠い記憶ゆめとなっても。
「かしこまりました」
 涙はいつの間にか止まっていた。千幸は、雪紫を真っすぐに見上げて、顔をほころばせる。彼女が見せる、初めての柔らかい笑みだった。



  久方の 光のどけき春の日に
  しづ心なく 花の散るらむ
 (日の光がおだやかな春の日に、いったいどうして、あわただしく花は散ってしまうのだろう)
                       『百人一首』三三番・紀友則



- 終 -


 
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